名乗る
コートとマフラーを外し、革張りの二人掛けソファにそっと腰を下ろした。
海溝の底のような、深い藍色。その生地がわたしの圧の分だけ沈みこんだ。
あ、わたしがここに座っちゃったらあのひとの座る場所がない。
そう気づいて焦ったとき、隣人がキッチンから湯のみをふたつ、運んできた。目の前に湯気を立てたお茶が置かれる。
クールな印象が強い彼に、その少しぎこちない手つきは似つかわしくない気がした。
「すみません、烏龍茶しかなくて」
「あ、すみません、なんか……いただきます」
いかにも日本人らしい仕草で意味なく謝り合い、頭を下げ合う。
湯のみを持つだけで、冷えきった指先が温まった。ひと口すすると、胃の腑にじわりとお茶の熱が沁みる。身体が冷えていたことを実感した。
「あったかい……」
「よかった。めっちゃ寒そうだったから」
隣人はかすかに笑って、ちゃぶ台の横にあぐらをかいて座った。自らも湯のみを口に運び、「あちっ」と言っている。
その様子に少しリラックスして、わたしはそっと部屋の中を見渡す。
緊張はほぐれても、この部屋のどこかで眠らせてもらうことになるかと思うとやっぱりどきどきした。
自分がものすごく大胆なことをしている気がする。こんな気持ちは久しく覚えがなかった。
それにしても、蔵書の量が尋常ではない。部屋の角部分にも、壁にぴっちり付けるようにして文庫のタワーが建っている。
「あ、すんません、本だらけで」
わたしの視線の意味に気づいて、先取りするように彼は笑いながら言った。
空気が柔らかくなって、ああ、このひとの放つ雰囲気は好きだとわたしは思う。
急に耳たぶが熱くなった。
「本、お好きなんですか?」
聞かずもがなのことを口にしてしまったと思ったけれど、
「あ、仕事で……ってか副業なんすけど、俺ライターやってて」
意外な反応が返ってきた。
ライター。物書きなのか。どこか知的な雰囲気の理由がわかった気がした。
ちょっと、と言って彼は立ち上がり、寝室(兼書斎?)に行って小さな紙片を手に戻ってきた。
差しだされたそれを受けとる。
海の写真をベースにしたデザインの名刺。白抜きで肩書きや氏名、連絡先が書かれている。
「文芸・文化全般
ライター コトブキタイジ」
……あれ?
どこかで見覚えのある名前な気がした。
「本名は
彼はそう言ってまた笑った。
「どこかでお名前、見たことあるような……」
「あー、すんげーたまに新聞とか雑誌のブックレビュー欄に寄稿したりするんで」
「えっ、すごい!」
思わず彼の顔を凝視した。
田舎者マインドの消えない俗人なので、メディアに関わるひとを目の前にすると驚く。
「全然すごくないっすよ。それだけじゃ全然食っていけないんで、香料会社で働いてて」
「……あ、もしかしてそれでこの香り」
「あー、やっぱにおいます?」
彼はわしゃわしゃと後頭部をかいた。
「製造係なんで、どうしても匂い持ち帰っちゃうんすよね。作業着は社内でクリーニングに出せるんだけど、髪とかについてて…」
「あの、すごくいいにおい」
「まじすか。今日はジャスミン使ったんすよね」
彼はほっとした表情になって、湯のみを口に運んだ。
相手にばかりプライベートなことを喋らせていることに気づいて、わたしは居ずまいを正し
「あ、わたし、木南紗子です」
と名乗った。
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