出会う
わたしは顔を上げた。
天啓が降ってきた、と本能的に感じたのだ。
よろよろ立ち上がると、こちらを見つめる瞳と視線がぶつかった。
隣りの201号室に先月越してきた男のひとだ。まともに顔を見たのは初めてだった。
初めて階段ですれ違ったときに軽く挨拶された記憶はあるけれど、急いでいたのでろくに顔も見ず、聞いたはずの名前も忘れてしまっていた。以来、何の関わりもなかった。わたしはもともと、そこまで社交性のある人間じゃない。
黒目が大きい。最初にそう思った。
まともに見つめるとその目力の強さに吸いこまれてしまいそうだった。
背が高く、肌はやや浅黒く、ボリュームのある黒い髪の毛にはふんわりと癖がある。パーマかもしれない。
近隣の書店のレジ袋を提げている。本が好きなのかな、と思った。
その落ち着いた雰囲気から、5歳ほど歳上だろうかと見当をつける。
「もしかして、入れないんですか?」
彼に言われて、自分の状況を束の間忘れていたことに気づいた。
「あっ、はい、えっと」
吸いこまれすぎない程度に彼の目を見つめ返しながら、わたしは言った。
「出先に鍵を忘れてきちゃったみたいで……」
「うわ」
隣人はほとんど表情を変えずにリアクションした。同情してくれていることは声のトーンで伝わった。
「不動産屋……は、もうやってないか。そもそも水曜か」
「そうなんです」
「スペアキーもないんすか?」
「ない……ですね……」
鍵をかわいいデザインにコーティングしたくて、ミスターミニットに出したままだったのだ。よりによってこんなときに。
一瞬、
「よかったら、うち泊めますけど」
隣人は、表情を変えないまま言った。
大胆な提案にあっさり甘えたのは、彼の醸しだす雰囲気から直感したからだ。
清潔なひとであること。まともに世間と関わっていること。おかしな下心を持って誘いこもうとしているわけではないこと。
それに、お風呂を借りて眠ることができたなら、ファミレスや漫画喫茶で夜を明かすよりどんなにすばらしいだろう。
――もちろん緊張した。男性の暮らす部屋に入るなんていつ以来だろうか。お邪魔します、という声が裏返り、ぎくしゃくしながら靴を脱いだ。
ふわりとジャスミンのような香りが鼻をくすぐった。アロマでも炊いている?
意外なその香りが、かすかな警戒心を解いてくれた。
エアコンが稼働していて、玄関まで暖気が満ちている。
当然ながら自宅と同じ部屋の間取りは、わたしを安心させた。
玄関を入ってすぐに広がるダイニングキッチン。その向こうに洋間が二つ。左手奥に脱衣所とバスルーム、御手洗い。
洋間はうちと同じく、向かって右の部屋を居間に、左を寝室に振り分けているようだ。奥にちらりとベッドが見えた。
「すみません、ちょっと散らかってるけど適当に座って」
隣人は脱衣所の方へ向かいながら言う。がらがらとうがいする音が聞こえる。
ああ、やっぱりきちんとしたひとだ。それだけで飛び跳ねたいほど嬉しくなる。
「あ、あの……」
背中に向かって遠慮がちに声をかけると、彼は大きな手をごしごしタオルで拭きとりながら振り返った。
「はい」
「すみません、わたしもうがいさせてもらっても……」
「え、ああ、ちょ……」
ちょっと、と言いながら彼はキッチンの水切りかごに伏せてあったグラスをひとつ取って、手渡してくれた。
「よかったら、これで」
心の底から安堵しながら、わたしは受け取ったグラスでうがいをする。薬用ハンドソープを借りて手もしっかり洗う。
少し迷って、タオルの端っこで濡れた手をそっと拭った。
しゅんしゅんとやかんの音がする。うちと同じ備えつけのコンロで、隣人がお湯を沸かしていた。
ああ、今夜は不思議な夜になる。
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