忘れる

 10月半ばの、月の明るい夜だった。

 定時で仕事を終え、いったんアパートたまゆらに戻って自転車を置いたわたしは、黄色い電車に乗って都心に出た。

 そんなに多くない友人の貴重なひとり、というか親友だと思っている美冬みふゆと、食事の約束をしていた。


 わたしの軽度潔癖症を誰よりも理解してくれている彼女が選ぶ店は、間違ってもテーブルや椅子がべたべたしていたり、コップの水が変なにおいがしたり、店員がカトラリーをテーブルに直接置いたりすることはない。

 それでもわたしは持ち歩いている除菌ウェットティッシュでテーブルを拭う。そしてようやく安心して腕を乗せる。

「相変わらずだね、紗子は」

 コスメブランドのビューティーアドバイザー、略してBAと呼ばれる美容部員をしている美冬は、いつものように店舗から持ってきたスキンケアやメイクアップのサンプルをどっさりくれた。

「ありがとう、まじ助かる」

「たまには買ってよね」

「はーい」

 くすくす笑いながらサングリアを飲む。ラザニアをつつき、カッペリーニをすする。

 週半ばの水曜日だけど、美冬に最近彼氏ができたので、その報告とお祝いでわたしたちはしこたま飲み、旺盛に食べた。

 サービス業に従事する美冬は平日休みが基本だ。今日が早番、明日が休みという美冬のスケジュールに合わせて会うことになったのだ。


 美冬の新しい恋人は、若手の舞台役者なのだという。

 いわゆるハイスペ婚を目指してハイクラスな飲み会やイベントに参加していた彼女なので、少し驚いた。夏の終わりに別れた相手だって、どこかのIT企業の社長だった。

「正直疲れちゃったんだ、そういうの。一周まわってやっぱり人間ハートだって気づいたわけよ。それに、いくら金持ってたって顔がアレだとね、ときめきが持続しないわ」

「いいと思うよ」

 苦笑しながら彼女のグラスにトクトクとワインを注ぐ。イタリアワインは、少し酸っぱい。

「わたしの知ってる劇団かな」

「知らない知らない、100パー知らない!」

 美冬は酔うと声が大きくなる。隣りの席のカップルがちらりとこちらを見た。

「『劇団水たまり』っていうの」

「知らないっす」

「ほらね。何しろ立ち上げからまだ2年も経ってないんだもん」

 そういう業界に生きるひとたちは、どうやって生計を立てているのだろう。現実的なわたしはついつい考えてしまうが、そんな無粋なことは口に出さずにおいた。

「主宰が水田みずた万理まりっていう女のひとなんだって。だから水たまり」

「何それ」

 笑い合ってテンションが上がり、ピザを追加注文することになる。きゃあきゃあ言いながらメニューを覗きこみ、しらすの和風ピザかマリナーラかで真剣に悩み倒す。

 こんなとき、女って楽しいと単純に思う。

 美冬は皿が空くたびに店員を呼び、下げてもらってテーブルにスペースを作る。誰にでもこだわりというものはある。


「やば。終電なくなる」

 美冬が赤い顔をして腕時計を見たとき、わたしも我に返った。

 終電。そのおそろしい響き。座れなければ、地獄が待っている。

 慌てて会計を済ませ、美冬に別れを告げて西武線のホームに走った。

 滑りこんできた電車をあえて見送り、次の1本に先頭で並ぶ。よかった、座れる。その次が終電だ。

車両の隅のシートに深く沈みこみ、わたしは安堵の息を吐く。車内はあっという間にひとでいっぱいになる。

 隣りには妙齢の女性が座り、ひたすらスマホをいじっている。やたら開脚してくる男性じゃなくてほっとする。

 目の前に立ったおじさんの腹がせり出してくる。膝の上に鞄を立て、さりげなくガードする。

 汚れた空気を吸いこみすぎないうちに、マスクを取りだして装着し、酒くさいにおいもシャットアウトする。

 ぱんぱんに膨れた準急列車は一度がたんと大きく揺れたあと、線路の上を滑りだす。

 多少酔っていても眠くても、最寄駅が近づくと身体感覚で気づくことができる。

 自分の犯している過ちに気づかずに、わたしは少しだけまどろんだ。


 ほろ酔いでアパートたまゆらに帰り着き、ドアの前まで来て、はっとした。

 鞄の中の定位置に、あの硬質で冷たい鍵の感触がない。

 わたしはしゃがみこみ、通路の照明に晒すようにして鞄の中を照らし、なおも探った。

 ない。


 青ざめながら、必死で記憶の糸をたぐる。

 ――あっ。

 原因に思い当たって、目眩めまいがした。

 今朝、寝坊して時間に余裕がなく、コートを引っつかみ腕にかけて部屋を出た。施錠したあとの鍵は、カーディガンのポケットに突っこんだのだった。

 夕食時、レストランの暖房が効きすぎていて、カーディガンは椅子の背にかけておいた。そして、そのままばたばたと退店してきてしまったのだ。

 会計をしたとき、ちょうど店員さんがラストオーダーを聞き回っていた。上りの終電も終わっている時間だ。仮にお店と電話がつながったとしても、今夜のうちに取り戻す術はない。

「うわ……」

 低くうめいて、わたしはしゃがみこんだまま頭を抱えた。

 通路の床の冷たさが、靴底から這い上がってくる。


 必死に頭を働かせた。

 せめてもう少し早く気づいていたら、美冬の部屋に泊めてもらうこともできたのに。今日は水曜日で、管理会社は定休日だ。そもそも、もう営業時間外である。

 駅前の漫画喫茶に泊まるしかないのだろうか。そう考えて、わたしは軽く絶望した。

 いつかテレビで特集されていた、ネカフェ難民と呼ばれるひとたち。「一週間も滞在してますが、そこそこ快適です」プライバシー保護のためロボットボイスに変えられた声で話していた男性は、こまめに着替えをしているようには見えなかった。

 店内にシャワーブースもあると言っていたが、みんながみんなシャワーを使うようなひとたちだろうか。

 なにより、他人の気配を感じながら眠ることを思うと、頭がくらくらした。

 それとも、24時間営業のファミレスか何か、駅前にあっただろうか。宿泊目的でひと晩中コーヒーをすすり続けるなんて度胸は、わたしにはなかった。シャワーも浴びずに会社へ行くなんて、考えられないし――。


 それ以上思考が働かず、そのまましばらく鞄を抱えてしゃがみこんでいた。

「――大丈夫っすか?」

 頭の上から、低く凛とした声が降ってきた。

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