喪う
初体験は、高校3年の終わりに済ませた。
それまで清らかな付き合いしかしてこなかったわたしにとって、それは上京する前の通過儀礼のようなものだった。
娯楽の少ない秋田の高校で、健気に処女を守っている女子はクラスでも少数派だった。
このまま東京に出るのは、さすがにやばいのではないか。都内の大学に合格が決まったとき、真っ先に思ったのはそんなことだった。
自分にずっと好意を寄せている相手の存在に、わたしは気づいていた。
同じ写真部の仲間で、
10名以上いた部員の中でなぜか波長が合い、いつも軽口をたたき合っていた。フィルムを現像するときも、ネガから写真を焼くときも、大会用のパネルを作るときも、大抵一緒だった。
久米はいつからかわたしのことを「
仲が良すぎて部内では「クメサコ」とユニット名のように呼ばれたりしたけれど、わたしは友達としか思っていなかったので、彼氏ができるたびに相談したりのろけたりした。
「まーたオトコできたのかよ、潔癖症のくせに」
彼はわたしをよく知っていた。
小学校の「保健だより」で拡大された黄色ブドウ球菌と大腸菌の写真を見て以来、世界が汚れて思えることも。キスの段階に至るたびに破局が訪れ、長続きしないことも。
卒業式のあと、なんとなく部室へ行ってみると、申し合わせたわけでもないのに久米も既にいた。
それぞれのクラスの打ち上げに行かなかった理由を、わたしたちは互いの瞳の奥に探し合った。
先輩たちが残した古いラジカセが置いてある窓辺に寄り添って3年間の思い出をぽつぽつと語るうちに、自然に唇が重なった。
こいつとなら、もしかしたら。
そう直感したことが見抜かれた。
ほとんど衝動的に手を取り合って暗室に入り、内側から鍵をかけた。
久米は暗室の水道で丁寧に手を洗い、制服のポケットから避妊具を取り出してみせた。
「……おまえの嫌がること、絶対しないから」
初めて同士、震える指でぎこちなく抱き合った。
久米は本当に、わたしの嫌がることをしなかった。唇が軽く触れ合うだけで、電気のほとばしるような衝撃が全身を走った。
パネルを立てかけるのに使われていた古いソファーを雑巾で拭いて、その上にやさしく押し倒され、わたしは制服姿のまま処女を喪失した。
秋田大学に進学する久米とは、それきりだった。
何の約束もしなかったし、そもそもわたしは彼に恋をしたわけではなかった――恋になるのを無意識に恐れたのかもしれなかったけど。
何度か着信を無視し続けたら、それでおしまいだった。
それでよかった。
東京は刺激的だった。
太く脈打つような大都会の熱気に、わたしは積極的に飲みこまれていった。
雪国で育ったちっぽけな自分を変えたくて、変わった自分を確かめたくて、クラスコンパでもサークルの飲み会でも合コンでも何でも参加した。
それなりにいい感じになる相手はいた。体臭がなく、きちんと手洗いする習慣を持つ男に限って、わたしは心を許した――許そうとした。
少しめんどくさいわたしをまるごと受け入れてくれるような器の大きな男とは、なかなかめぐりあえなかった。ほとんどの男は、同世代の女たちの頭の中より服の中身に価値を見出し、貪ろうとしていた。
性急に距離を詰めようとされるたび、自分の中で防御本能がアプリのように起動するのを感じた。
唇を唇で割って潜りこんでこようとする動きを拒めば、気まずくなるのは当たり前だった。
「おまえ、どっかおかしいんじゃねえの? 」
そんな言葉を投げられることもあった。悲しいくらい自明のことすぎて、何も言い返せなかった。
すべてを委ねてもいい相手、人生観を変えてくれるほどの相手にはめぐり会えない。東京が、ひとつのちっぽけな町に思えてきた。
いわゆるセカンドバージンのまま、社会人になった。
その頃には世の中の衛生意識もより高まって、除菌ジェルを持ち歩いても奇異の目で見られることはなくなった。
潔癖症により自覚的になり、一度は髪の毛を人生初のボブにした。髪には埃や汚れはもちろん、空気中の菌やウィルスも付着するからだ。
それでも、年頃の女性としての欲求を優先する程度に、わたしの潔癖症はたいしたことはなかった。おしゃれはしたいし、おいしいものだって食べたい。いつかは誰かと体温を分け合って眠りたい。
貯めたお金で台湾やベトナムを旅し、屋台料理に挑戦するくらい思いきったこともできた。なんだ、案外わたし普通じゃん。自分の可能性を感じた。
髪の毛は気づけばまた、肩甲骨の辺りまで伸びている。
大学時代の友人の家に招かれたとき、ラップでぐるぐる巻きにされたリモコンの数々を見た。彼女の母親が重度に近い潔癖症とのことだった。
彼女の部屋に入り語らっていると、廊下からシュッシュッという音がした。客の歩いたあとを母親がアルコールで除菌する音であることは容易に察しがついた。
不快感はなかった。自分など、めったなことでは他人を自宅に呼びさえしない。
上には上がいる。ただ、そう思った。
輸入車ディーラーを辞める少し前、整備士の男と関係を持った。例の先輩の彼氏だった。
寡黙だがどことなく機微の通じる男で、キスのとき少し顔をそむけるだけでわたしの意図するところを察してくれた。厚い皮膚から車のオイルのにおいがした。
もとより他人のものだから執着し合うこともなく、貪られる快感だけ味わって、後腐れなくフェイドアウトした。転居先も転職先も訊かれなかった。
今の町とアパートたまゆらに落ち着いた頃、呪いじみた文面のメールが先輩から届き始めた。わたしは無の境地でそれを削除し続けた。
こんなもんか、恋なんて。命を賭すほどの価値もない。誰もわたしの心なんてほしくないのだ。
25歳にして人生というものに少し疲れ始めていたわたしはそう思った。
以来、その価値観はアップデートされないままだ。
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