働く

 秋の長雨が続いている。


 いつものように押し開きのドアを軽い体当たりで開きながら入室すると、

木南きなみさん、最近早いねえ」

 主任の外口そとぐちさんに笑顔を向けられた。ミルクティー色に染められた髪は今日も豪快な縦ロールで、耳には大ぶりのシャネルのピアスが光り、その爪は鮮血のような赤に塗られている。

 見た目は派手だけど、信頼できる上司だ。付けている香水も、比較的さわやかなものだ。

「雨だと、ちょうどいい時間に出るバスがなくって。もう1本遅いとぎりぎりになっちゃうから」

「そっかあ」

 外口さんはうなずいて、ヤマザキの菓子パンの袋を破き始める。彼女はいつもデスクで朝食を食べる。


 やがて、他の同僚たちもぱらぱらと出社してくる。型通りの挨拶を交わし、身の回りを整える。わたしはいつも通り、自分のPCのマウスや机まわりを除菌ティッシュでぬぐった。

 9時に始業チャイムが鳴り、毎朝の簡単なミーティングをその場で行う。

 10時には電話がけたたましく鳴り始める。PCのWEBマニュアルを操作しながらインカムマイクで対応し、その履歴を基幹システムに記録してゆく。


 家庭用浄水器を主力製品とするこのメーカーで、わたしは「お客様サポートセンター」のオペレーターとして働いている。小規模なコールセンターのようなものだ。

 電器屋やホームセンターで販売されているだけでなく、不動産会社と契約してマンションなどの集合住宅にも設置されている商品なので、使用方法や不具合についての問い合わせの電話は多い。


「はい、ではまず型番を確認いたしますので、お手数ですが箱の裏面に記載されているXCから始まる番号を読み上げていただけますか?」

「ご迷惑をおかけいたしまして申し訳ありません。ではまず、具体的なご使用状況を確認させていただきます」


 すっかり板についたマスタートークを使いこなし、対応別のwebマニュアルを開きながら案内を進めてゆく。ほとんどはそこで解決するが、まれにらちの明かないケースや担当外の問い合わせもあり、然るべき部門にエスカレーション(転送)する。


 わたしがこの会社に落ち着いている要因のひとつとして、就労環境が衛生的であることは非常に大きい。

 床や廊下は清掃業者によって隅々まで磨き抜かれ、インフルエンザの季節以外も随所にアルコールスプレーが設置してあり、トイレの照明は人感じんかんセンサーで、便座シートやタオルペーパーも備え付けられている。

 給湯室の水道には自社製品である浄水器が取り付けられ、いつでもきれいな水が飲める。わたしはもちろん、水をさらに沸かしてから使うけれど。


 新卒で入社した会社は、端的に言えば、合わなかった。

 地元では名の通った輸入車ディーラーで、整備工場も備えており、わたしはショールームの受付を担当していた。


 仕事的には、それほどきついということはなかった。高級な外国車を購入することができる程度のハイクラスな客層だったから、粗野なふるまいをしたりクレームを付けてきたりするような品のないひとはほとんどいなかった。

 ただ、就労環境が良くなかった。

 始業40分前には出社して、事務所と売り場の掃除をすることが不文律になっていることを、入社して初めて聞かされた。

 水回りはすべて女性の仕事で、整備士たちが飲むための紅茶をポットいっぱいに作り、全員の机を水拭きし、トイレの掃除も男性用まで分担した。もちろん無給で。

 先輩の女性社員たちが、自ら男性陣のマネージャー的役割に身を捧げている節があった。

 経理事務のひとが不在のときは、整備代や車検代の受け取りを代行した。お金を触った手を洗いに行きたくても、なかなかできなかった。

 トイレ掃除は決められた時間のほか、自分が使うたびに全体を清掃し、ペーパーを三角に折り、壁に貼られたリストの項目にチェックを入れなければならなかった。それを思うと憂鬱になってしまい、休憩時間が来るまで尿意をこらえる習慣がついてしまった。

 社長の意向で事務所内にもショールームにもごみ箱はなく、みんな自分のポケットや引き出しにごみを溜めこみ、休憩時に収集所へ直接持っていくか、自宅へ持ち帰らなければならなかった。

 そんなおかしなルールがいくつもあった。

 我慢を重ねて得た初めてのボーナスは、額面で3万円だった。見間違いかと思った。

 たしかに、待遇の文面の「賞与は年1回支給」の横に「※ただし業績による」と書かれてはいたけれど。


 やがてストレスのあまり胃をこわし、息を胸の奥まで吸いこめないような酸素を取りこみにくいような、おかしな息苦しさに襲われるようになった。

 初めて有休を使って休養した翌日、信頼していた先輩に思いきってもやもやを吐きだしたとき、「じゃあ、自分だけやらなきゃいいんじゃない? でも会社への感謝があればできると思うけどな」と一蹴されて、心の奥で何かが崩れ落ちた。


 今の会社は、口コミサイトで懸命に労働環境を調べ、面接の前にさりげなくトイレも借りてチェックした。

 顧客は電話の向こうにいて、不要な接触はない。基本的な製品情報と緊急の対応方法さえ頭に入れてしまえばスムーズに働くことができた。ショールームでの接客経験が活きて、ビジネス敬語にも不自由しなかった。

 特段嫌なひともいないし、これといった不条理も感じない。

 水槽の水を取り替えてもらった金魚のように、わたしは息を吹き返した。

 この職場でなら、呼吸することができる。


 そろそろ、本気になれる恋に出会ってもいい頃ではないだろうか。

 心にゆとりが生まれると、20代らしい願望が芽生えてはしゃぼんのように消えていった。

 数々の手痛い経験と潔癖症が、わたしを恋愛に億劫にしていた。

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