第1章

暮らす

 仕事を終えてまたバスに乗り、駅ビル内のスーパーで食材を買って、レジ袋と傘を手にアパートに戻る。

 帰りには雨はやんでいて、それでもバスに乗らなければならないのはちょっと損した気分だった。

 会社に置き傘ならぬ置き自転車をしたいくらいだ。


 私鉄の駅からたらたら歩いても10分かからずに帰り着く、4階建ての建物。

「アパートたまゆら」。それがわたしの住む集合住宅の名称だ。


 転職に合わせて東京の外れにあるこの町に住むことを決めた2年前、不動産屋をハシゴして窓にべたべた貼られた間取り図を見て回っていたわたしは、その名前に感じるものがあって足を止めた。

 パレスとか、カーサとか、ラ・メゾンとか。「家」を意味する外国語はいくらでもあるのに、ド直球で「アパート」を選択し、さらに大家さんの名前でも地名でも建物の特徴でもない「たまゆら」という単語をつなげたそのセンスに。


 間取りは2DK、48平米。ひとり暮らしには申し分ない広さだ。全室フローリングで、セパレートのバスとトイレにはそれぞれ窓もある。

 202号室が即入居可能、すぐに内見できますと不動産屋の妙齢の男は如才なく笑った。

 わざわざ車で行くほどもない距離を煙草くさい小さな社用車に乗せられて線路沿いに走り、商店街に入ってすぐに「あれですよ」と指されて最初に目に入ったのは、淡いモスグリーンの壁から突き出た欧州風の白いベランダだった。

 あのベランダで夜空を眺めながらココアを飲む自分が、一瞬でイメージできた。

 オートロックやお風呂の追い炊き機能がないのは残念だし、家賃も2,000円ほど予算オーバーになってしまうが、構わなかった。

 わたしは一刻も早くアパートたまゆらの住人になりたかった。


 あれから2年と半年。

 今年の春先に更新料を支払い、わたしはこのアパートの202号室に住み続けている。仕事の方もうまく続いて、夏が来る前に27歳になった。

 部屋を清潔に保ち、防虫に力を尽くし、インテリアに凝った。住めば住むほど、部屋と心を通わせられる気がした。

 星はあまり見えなかったけれど、気分のいい夜は欧風の白いベランダでココアを飲んだ。

 こんなに住みよい物件なのに転居してゆくひとはいて、引越しのトラックが横付けされているのを年に数回見た。その都度、ほどなくして入居者の引越しトラックを見ることになった。

 ひとの数だけ、事情があるのだろう。家族が増えたり。その逆だったり。転勤になったり。何の障りもなくても、ひとところにとどまれないひともいるだろう。

 まさに、たまゆら。ほんのしばらく。束の間。しばし。

 玉がゆらぎ触れ合う音のかすかさのような、ごく短い、人生の中のほんの一瞬を、ひとは同じアパートの屋根の下で過ごすのだ。


 そしてまた、新たな入居者がやってきた。

 隣りの201号室。

 琴引ことびきさんは、秋の深まる頃に引っ越してきた。

 わたしがその名前を知るのは、翌月のことだった。

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