【4/全部、私のモノになればいいのに】



 たった一口、否。始めの一滴が舌の先端に触れただけで、それは綾子の全てを支配した。

 いつもならば、錆びた鉄を薄めたような然程美味しくもない味で、只の栄養補給の行為に過ぎないのだが。

 確かに血であるのに、芳醇としか言えないような香りが口内に広がり、不思議と甘く、脳髄をとろかせるような、多幸感と腰が痺れるような、何とも言えない感覚を与える。

 喉の乾きが収まる代わりに、その味が病み付きになって、貪欲に求めてしまう。

 中毒性のある麻薬とは、こういう事を言うのだろうか。

 綾子は牙をもっと深く差し入れ、溢れ出た血液をごくごくと嚥下した。



「っはぁ。ん、はぁん。もっと……もっとぉ」



 何でこんなに……、と。綾子は衝動に突き動かされる様に、慎太郎の首筋にむしゃぶりつく。

 八重歯で開けられた穴から流れ出る血液を舐め。開いたままで敏感な傷口を、執拗に舌で捏ね繰り回す。

 アルコールを摂取したときよりも強い酩酊感を覚える一方、五感が異常なほど冴え渡った。

 体の芯が、心の底から解れていく様な。

 欲望という名の大輪の華が、無理矢理開かされていく様な。

 肉体と精神が直結し、快楽という暴力に蹂躙されていく。

 こんなのしらない、と。綾子は、理性を総動員して慎太郎の首筋から牙を離した。



「くぅっ! ああ、綾子! っはぁっはあ。何だこれ、駄目だっ!」



(血、吸われて、気持ちいいのね慎太郎)



 何かを堪える様に喘いでいた慎太郎は、綾子の牙が離れた途端ぐにゃりと両膝を着き、次に綾子の寄りかかる重みで後ろに倒れた。

 意図せず、綾子が慎太郎を押し倒している構図となる。

 その事に彼女は、嗜虐的な官能を覚えて身震いした。



「涙目のしんたろー、かぁいーのー」

(涙目のしんたろー、かぁいーのー)



 息を荒げて頬を紅潮させ、まるで発情したみたいな慎太郎を上から見下ろし。

 呆気なく綾子の本音と建前が崩壊した。

 もはや、言語回路だって正常に動作しているかどうか怪しい。

 何かもかもが吸血衝動に支配され、気がつかない。

 互いの胸に、薔薇を咲かせたような痣がいつの間にか浮かんでいた事を。

 普通、吸血時において相手のみが受けとる性的な悦楽が、自分にも効果を及ぼしている事も。

 通常、吸血された者がその最中に受ける麻痺が、慎太郎には一切効いていない事も。

 吸血鬼として他者を傷つけ圧倒する能力が、全て無効化されている事を。



 そして。

 慎太郎が、嫉妬に満ち溢れた昏い目をしている事も。



 綾子は気付かない。



 カーテンで光が遮られた部屋の中、お互いの荒い吐息と静かな矯声だけが支配していた。

 ぴちゃぴちゃという音がする度、慎太郎の首筋が彼の血と綾子の唾液が混じり合い、慎太郎に絡み付く女の喉が鳴って、首筋が綺麗に舐め取られる。

 その感触全てが、身体中を侵す法悦となって喘いでしまう。



 快楽が強すぎて動けず切れ切れとなる意識を、慎太郎はたった一つ、綾子への愛という名の執念で、綱渡りの正気を固持していた。



「あ、あやこ……。綾子……綾こぉ……」 

「んんっ、ゃん! ……はぁん。おいし、きもちぃよぉ。もっとぉ、もっと頂戴ぃ」


 

 慎太郎は、綾子のこの行為を止めさせようと必死に呼び掛けるが、それが逆に綾子の情欲をそそったらしく、上半身を脱がされ、胸板を淫靡な手つきで撫でられて喘いでしまう。

 せめてもと睨み付けるが、情欲に染まりきった綾子の赤い瞳にときめいてしまい、視線を反らしてしまう。

 さまよう視線は、つい、髪の隙間から覗くうなじ、彼女の紅色に染まった肌に引き寄せられ、白いセーターの粗い網目状になった隙間からちらりと見える胸元に釘付けになる。

 慎太郎の視線に気付いた綾子は、自信の唇を誘うように舐めながら、その柔らかな胸のセーター越しの感触を、慎太郎の逞しい胸板に押し付ける。

 

 

 その綾子の行動が、慎太郎の感情を燃やす。

 いったい君に何があったていうんだ、という心配と。

 思うように悦楽を貪れない、生殺しのもどかしさと。

 他の男にもこんな風にしているのかという、怒りと。



 勿論、綾子が吸血衝動に自分を見失うのは今回が始めなのだが、そんな事、慎太郎が知るよしもなく。

 理性が崩壊し、本音と欲望しかない綾子の現状を、察する事も出来ず。

 回り始めた陰鬱な想像が、その身を焦がし始める。

  


 今の様に淫蕩に支配された綾子が、見知らぬ男を組敷いている所を思い浮かべ歯軋りし。

 また、そんな綾子が見知らぬ男に組敷かれ、好き勝手に蹂躙されている所を考えてしまい、目を血走らせる。

 下腹に溜まる煮えたぎるような重みが、綾子の与える快楽と混じり合い、嫉妬の炎を過剰に燃え上がらせた。



「ねぇ、しんたろ。わたし、すきよ。あいしてるの。だから、そんな顔しないで」

「――っ! 何をそんなっ!!」



 だから慎太郎は、その他の何より欲しかった言葉が何より癇に障って。

 綾子を力一杯はね除け、床に倒れた彼女に馬乗りになった。


 

 いヤぁ、と。短い叫びを上げる綾子を無視して、慎太郎は彼女の服を剥ぎ取ろうと手に掛け。

 そんな事より血が欲しいと、暴れる綾子と、子供のような掴み合いの喧嘩を始める。



「しんたろの血ぃ。吸うの! 貴方の欲しいの!」

「……、五月蝿いっ!! 大人しくしろ!」



 お互いにお互いを本能のまま獣の様に求め、自分の事しか考えていない為、限りなく平行線。

 ドンドンバタバタと騒がしい音が響き渡り、同時にヒステリックな女の声と闇雲に怒鳴る男の声が回りの部屋にも伝わる。

 今日が平日で、勤め人が多いこのマンションでなければ、即通報されていただろう。

 


 どちらかが制圧されるまで続く様に思われた争いは、ひっくひっく、と半泣きの彼女の姿で動きを止めた。

 涙の堤防が決壊寸前な綾子に、慎太郎は戦意を削がれ項垂れた。

 体の火照りは引きつつあったが、冷静な思考が戻ってきた分、余計に混乱する。

 今の状況はいったい何なのだろうか。



 正気へ回復の兆しを見せる慎太郎とは反対に、綾子の精神は混迷を深めていく。

 何で、何で効かないのよぅ、と。慎太郎の顔を両手で掴み、その瞳をひたすらに睨み付けている。

 幾度となく暗示の魔眼を使っても、慎太郎の指先一つ綾子の思い通りに動きやしない。



「私に、支配されなさいぃ」

「綾子、君は……?」

「――っ! もう! 何で言うこと聞いてくれないのよぉ」



 慎太郎は今にも泣き出しそうな綾子の目を見つめ、その瞳が人間では到底不可能な動きと、赤い光を放っている事に気が付いた。

 同時に綾子も慎太郎が何かに気が付いた事を、本能的に察知した。

 ――真逆。

 


「吸血鬼。だって、いうのか……!?」



 そんな馬鹿な、と。驚きに満ちた慎太郎の声を聞き、綾子はついに泣き出した。

 知られてしまったと、大粒の涙を流し、不安と悲しみと、突き刺すような切なさで胸が満ち溢れているのに、躯の欲情は止まってくれなくて、狂乱の一途を辿る。

 両腕を掴まれ腹の上に乗られては、慎太郎の首から滴り落ちる血の一滴すら、舐めとる事ができなくて。

 血を吸うという、最後に残ったたった一つの望みですら叶えることが出来ず、綾子の心が躯から軋みを上げて解離し始めた。



(何で――)



 何で、バケモノになってしまったのだろう。 

 そんな、自分ではどうすることも出来ない後悔が、綾子の思考をぐるぐると回り始める。

 慎太郎を自分だけのモノに出来るならばそれでもいいと、受け入れた気になっていた。



(ひどい、ありえない。何で今さら、こんな中途半端な) 



 人間ではなくなってしまったのに、吸血鬼として、満足に血を吸う事も出来ない。

 太陽の生活を無理矢理諦めさせて、妙な力を押し付けた癖に。

 それすら、取り上げるのか。

 こんな状態ではもう、自分自身を誤魔化す事すら出来ない。

 いったい誰が、こんなヒトモドキを受け入れてくれるのか。例え、受け入れてくれても傷つけて迷惑かけて、終いには殺してしまうかもしれない。



 綾子は、血への渇望と生の絶望が入り交じった叫び声を出し、慟哭した。

 そして血が出るほど唇を噛み締め、力を振り絞り慎太郎の拘束から逃れ、再び、彼の上に馬乗りになり。

 ――意味をなさない言葉を吐きながら、無我夢中で慎太郎の首を絞めた。



「……俺を、……殺すのか」



 慎太郎は掠れた声を綾子に届かせた。

 精一杯絞めても死には程遠い弱々しい力に、慎太郎は愕然とする。

 鬼としか言えない綾子の形相が、世の中の負の感情をかき集め背負わされたような、そんな悲痛な姿に見えて、哀しくて。

 そんなに泣いたら目が溶けてしまうのではないだろうかと、慎太郎は、綾子の涙を指で拭う。

 こんな、吸血鬼みたいな体になってしまって、綾子は大変だった筈だ。

 だからきっと、これは、綾子が大変な時に一緒に居なかった罰なのだと、慎太郎は口を開く。



「……君が、……それで、楽に……なれるなら」

 


 殺してくれてもいい、と苦しそうにに笑う慎太郎を見て、綾子は正気を取り戻した。

 首から手を離し、嫌、嫌、と。力無く首を振って叫んだ。



「う、あ、ぁあ、ああああああ! ……イヤぁああああああああああああああ!!」

(私は、こんな事したかった訳じゃ、こんな顔をさせたかった訳じゃない――!)



 慎太郎を傷つける自分なんか、死んでしまえばいい。

 そう思った綾子は、立ち上がり衝動的に部屋の角に逃げようとして。

 テーブルの上に出されたままの、包丁を見てしまった。

 そして慎太郎が起き出すより早く、包丁を取り、台所の奥まで逃げ。

 



 ――躊躇い無く。自分の喉に。包丁を突き刺した。


 


 喉が、カァと灼熱し、例えようのない鋭い痛みが走る。

 綾子は虚空を睨み付け、奥歯を噛んで食い縛り、包丁を根本まで差し込み一気に引き抜いた。

 刹那、綾子は血にまみれて倒れ伏す自分を想像した。

 しかし。 



「な、んでっ! 何でよっ!!」



 傷が塞がる。 

 綾子が包丁を引き抜いた側から、傷は元通りの肌へと戻っていく。

 信じられない、と自身の喉を忌々しげに掴んだ後、綾子は自分の腹や胸を滅多刺しにした。

 その手つきに躊躇いは無く、ただ、死ななくては為らないという強迫観念だけがそこに在った。



「何で! 何で! 何で! 何で! ……何で、死ねないのよ」



 幾ら刺しても血の一滴溢さない自身の体に愕然となって、綾子は項垂れた。

 彼女の手から、からんと包丁が落ちる。

 皮肉なことに、綾子を生かしたのは吸血鬼としての力だった。

 その事に思い至り、どうしようもない無力感に苛まれる。

 打ちひしがれて動けない綾子に、再び喉の乾きが襲った。肉体を再生しため原動力となる他者の血液が不足している。

 このままでは、躯が維持できなくなって死んでしまう可能性があったが、それで死ねるならそれでいい、と、頭を垂れたまま、綾子は動かなかった。

 そんな彼女の前に、男か近づく足音がした

 綾子にはそれが、審判を告げる鐘の音に聞こえた。



 ――慎太郎は、綾子の行動の一部始終を見ていた。

 彼女が自分の喉を突いた時も、狂ったように躯を刺した時も、じっと見ていた。

 そしてそれは、慎太郎に深い怒りを与えた。

 何故頼ってくれないのか、相談すら持ちかけてくれないのか。

 綾子にとって悩み一つ打ち明けられないような存在だったのか。

 これまで積み上げてきた年月、想いの全てが否定された気がして、悲しかった。

 だから、もう迷わない、と。狂気に染まった決意を露にし、寝室に向かう。

 そこには、とあるものが仕舞ってあった。

 芽衣の私物だが、この際使ってもいいだろうと手に取り、慎太郎は綾子の下へ行く。

 


「綾子、こっちを向くんだ」



 冷たい声に、綾子はのろのろと顔を上げた。

 彼女の瞳に飢えを確認して、慎太郎は暗く微笑む。

 それに綾子が何かを感じる早く、冷たい皮の感触と共に、じゃらりという鎖の音がした。

 慎太郎は、綾子に首輪と手枷、足枷を着け、鎖で繋ぐ。

 綾子は抵抗せずに、瞳をそっと閉じた。

 心がばらばらで、世界から弾き出されたように悲しくて寂しくて無力で。

 そんな権利ないのに、慎太郎から伝わる暖かな温もりが嬉しくて。

 欲情がぶり返し始めた肉体が、血を欲して疼く体が悔しくて。



「――君はもう、俺のモノだ」



 慎太郎は耳元で囁くと、綾子の躯を軽々と持ち上げ寝室へと連れていく。

 首筋が近くなり、綾子は我慢できずに牙を立て血を吸った。

 何故だかその血液から、彼の感情が伝わってくるような気がして、ごくごくと飲み干す。

 一口飲む事に、綾子の躯は淫蕩に花開いていき、同時に、慎太郎の劣情を掻き立てた。



「愛してる。綾子……」



 寝室に着いた慎太郎は、綾子の吸血を力づくで止めさせるとベットの上で下ろし、彼女の首輪とベッドを鎖で繋ぐ。

 お互いに無言。

 愛憎に満ちた視線で綾子を睨む慎太郎に、光無き瞳に欲望以外映さない綾子。

 慎太郎は酷く傷ついた顔をすると、綾子のその存在を認めさせようと、荒々しくキスをした。

 綾子は慎太郎の為すがまま、蹂躙を受け入れる中、ぼんやりと思う。

 きっとどこかで、こうなる事を望んでいたのだ。 

 儚く壊れた笑みを、綾子は浮かべる。

 


(慎太郎の怒りも哀しみも、喜びも楽しみも、快楽も痛みも。

 ――全部。全部、私のモノになればいいのに)



 やがて。

 綾子の意識は、慎太郎が与える全てのものに呑み込まれていった。


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