【3/壊してみたくなったの、私のこの手で】
(母さん、産まれて始めて心からの感謝をしています――! 悪女の手管、教えてくれてありがとう!!)
「綾子、俺は――っ!」
「――言わないでっ。……お願いよぉ、……わかって、わかってるから」
部屋の中は一人の女吸血鬼の情欲と打算と、好いた女に翻弄される憐れな男の恋心で満ちた。
ある種、異様な空間だった。
何かを言いかけた慎太郎に先んじて、綾子は慎太郎を後ろから抱き締めて耳元で囁く。
もし慎太郎の前に鏡でも有ったら、綾子のほくそ笑む顔が見れたのだが、そうではないので慎太郎は綾子の術中に嵌まっていく。
綾子の中で慎太郎の反応が冷徹に分析され、打算と破滅的な悪意と共に言語のパズルが組みあがる。
「いいの。気にして、無いから。……だから、ね。」
「綾子……」
「嬉しかったの。貴方に初めてを捧げられて、ずっとずっと。好き、だったから」
昨日と違い、アルコールの入っていない本音。
嘘に紛れて放たれる本物の輝きに、綾子の言葉がどうしようもない真実として慎太郎の脳裏に染み渡る。
「幻想かもしれないけど、気持ちが通じあったって、それだけで満足だから」
「――だから慎太郎は、芽衣の所に帰ってあげて」
「その方が、みんな傷つかない。幸せになれるわ」
おじさんもおばさんも、北条の会社だって、芽衣の所の会社だって、と。綾子は涙が溢れそうな声色を堪えている演技をしながら言い。
ああ、でも、もし赤ちゃん出来てたら、産むのは認めてほしいな。だって貴方の子だもの。迷惑はかけないから。とも続ける。
幼馴染みであるが故に、慎太郎は綾子の事を深く理解している。
今の綾子に何を言っても逆効果で、挙げ句の果てに逃亡どころか死を選びかねない思いきりの良さを解っている。
彼女を落ち着かせるには、ひたすらに無条件降伏し、愛の全てを語るほか無い。
彼が綾子の事を理解しているが故にそういう結論行き着いた事を、綾子は感じ取った。
長い付き合いだからこそ出来る読み合いで、この場合、慎太郎の思考を読み取り罪悪感を利用した綾子が悪辣過ぎたのだ。
綾子は慎太郎を抱き締める力を増し、過剰演出に走る、気分は昼メロの主人公だ。
正直、オーバーキルである。
(もういいかな? 後は最後の一言を引き出すだけね)
綾子、綾子ぉ……、と苦しそうに名前を吐き出す慎太郎に、綾子は十分に間を置き彼が冷静なるかならないか位の所で、釣り針に餌をぶら下げて垂らす。
「一つだけ、ね。一つだけ、答えて欲しい」
最大限勇気を振り絞ったような、綾子の涙混じりの声。
動揺を誘うため、俯く慎太郎の視界内に落ちるように、涙を溢す綾子。
これから問う事は、綾子が長年聞きたかった事で、でも怖くて聞けなかった事だ。
演技だと言い聞かせても体が強張る。
ごくりと大きな音を立てて唾を飲み込む音がしたのは、果たしてどちらだっただろうか。
(人間のままだったら、言えたかしら)
恋人でも無いのに、夫婦のように一緒にいた二人の関係が壊れるのが怖くて、言えなかった言葉。
綾子の心臓が、ドックンドックンドックンドックン、と早鐘の鳴らすように激しい動悸をみせる。
緊張と不安が膨れ上がり、耳がカァ、と真っ赤になって。その赤色が手にまで伝わって震えてしまう。
たった一言なのに、こんなにも苦しい。
お腹の奥にどろどろと熱く重いものが溜まって、逃げ出したくなる衝動を抑え、口を開く。
それは小さく震えたものだったが、綾子の全身全霊の叫びが詰まっていた。
「私を、――愛してる?」
刹那、慎太郎が綾子の手を痛い位に握りしめた。
彼は口を開き衝動的に声を出そうとして、止める。
そして綾子の手を離すと今度は腕を大事そうに掴み、無言で椅子の横へと誘導し自分も立ち上がった。
綾子は慎太郎のするがままに、ただひたすらに答えを待った。
心臓が痛いぐらいに鳴り響く、数十秒あったかどうかなのに永遠の様に長い。
神に祈る敬虔な信徒ように目を閉じてしまった綾子に、慎太郎は、目を開けて顔を上げて、と。優しく言う。
慎太郎は神ではない、しかしこの場において、今の綾子にとって、彼は紛れもなく神であった。
綾子は何かに憑かれた様に、先ほどの緊張や不安を感じさせない動作で、目蓋を上げた。
慎太郎の真剣で情熱の籠った眼差しが飛び込み、体を串刺しにしていく。
優しく両手を取られ引き寄せられて、互いの鼓動がわかるぐらいに密着した。
彼の。
唇が開く。
「如月綾子さん。俺は君の事が好きだ。愛している。――俺の、恋人になって欲しい」
飾るところひとつない率直な言葉、純度百パーセントの熱い想いに、綾子は涙を一筋流した。
それまで考えていた打算が、頭の隅々まで吹き飛んでいき、全ての虚飾が剥がれ落ちていく。
歓喜の衝撃が全身に行き渡り、叫び出してしまいそうだ。
「本当、に……?」
「何度だって言うさ、俺は綾子を愛している。君が今すぐ望むなら結婚してもいい」
「慎太郎……!」
慎太郎は、驚きと嬉しさで目を見開く綾子にキスをした。
綾子は答えるように、そっと目を閉じる。
唇と唇が触れあうだけの優しい口づけ。
喜びに打ち震えると同時に、様々な隠し事が罪の意識を産み出して、無上の幸せに浸らせてくれない。
私も好きだと、言い返せなくて。
変わりに、今まで言えなかったずっと気にしていた事柄が、喉元まで出てくる。
――叶多芽衣。
因果だろうか、それは先程の演技で言い放ったモノと同質のものだった。
最後の最後その一線で、唯一無二の親友を信じきれない。
甘く苦しい胸の痛みに、綾子は慎太郎から名残惜しげに唇を離し、真正面から真摯に瞳を合わす。
「……芽衣はどうなるの? あの子は慎太郎の婚約者だわ。政略結婚する予定だったのでしょう。――私は貴方にも、おば様達にも、迷惑かけたくないわ」
「綾子、やっぱり気にしていたんだな」
「……」
「その事については、大丈夫だ。先祖の遺言で、代々の長男が叶多の家と婚姻による繋がりを作るように言われて、慣習の様に俺も婚約しているが、何も別に、必ず結婚しなければならないと言うわけではないんだ。
実際、家の父さんや、爺さんだって、叶多家以外の人と恋愛結婚している訳だし」
「それは、……本当なの?」
「ああ、だから君と一緒にいることに障害なんてないんだ」
慎太郎の言葉に綾子は、安心してほっとしたのだか、障害がなくなって嬉しいのやら恥ずかしいやら、もしかして空回りしていた? と複雑な表情をした。
芽衣は、とにかく大丈夫だからの一点張りで、詳しいことを話してくれなかったのだ。
「綾子が信じられないなら、今すぐ母さんと父さんに挨拶につれていっても良い。
……もう一度言うよ、俺達の前になんの障害もない。
だから、如月綾子さん。
俺と、一生一緒にいてくれませんか?」
慎太郎は片膝を着いて綾子の手を取り、その甲に触れるようなキスをした。
彼の愛の籠った告白とプロポーズに、綾子の内心で狂喜乱舞し、今にも抱きついてキスの雨を降らしたくて、身動ぎした。
だけど。
「はい、と言ってくれ綾子」
すがるような声、綾子のみしか入っていない瞳。
慎太郎の情熱に答えようとして口を開きかけ、躊躇い閉じる。
答えてしまって、いいのだろうか?
人とは違う、化物なのに――。
吸血鬼になったとしても、それがどうかしたの、と考えていた綾子であったが、心の奥底ではずっと引っ掛かっていたのだ。
でも、でも。
隠し通して、気づかせなければ、もしかすると、きっと。
良いのではないか?
「――――っ! ああぁっ!」
「綾子!」
それは運命だったのだろうか。
綾子が、はい、と。返事を返そうとした瞬間。
窓の外、途切れた雲間から一筋の太陽光が慎太郎を祝福するように降り注いで。
綾子の。
目を。
奥まで。
焼き尽くした。
「大丈夫か!? 綾子!!」
「……………………大丈夫よ。
ちょっと、目に。直接太陽を見ちゃっただけだから」
綾子は慎太郎に気付かれまいと、必死に目を覆い隠した。
日の差し込まぬキッチンの奥まで逃げ込み、しゃがんで、奥歯を噛んで悲鳴を堪えた。
例えガラス越しであっても、日光が吸血鬼の大敵な事に変わりはない。
だが一瞬の事で、吸血鬼として常人の何倍もの肉体再生能力を持つ体。
既にその眼球は、シュウシュウと音を立てんばかりに再生を始めている。
「大丈夫よ……」
光の当たらぬ場所から、光の当たる場所にいる慎太郎に。
綾子は自分に言い聞かせるような笑顔を向ける。
世の中の全てから拒絶されている気がして、綾子は悲しかった。
その顔は強張って今にも泣きそうであり。彼には彼女が、今にも壊れてしまいそうな硝子細工の様に思えてた。
彼は今すぐ駆け寄り抱き締めたかったが、綾子の雰囲気がそれを許さなかった。
(どうして私は、吸血鬼なのだろうか)
どうして、どうして人並みの幸せを享受出来ないのであろうか?
慎太郎の気持ちを弄ぶような事をしたからか。
もっと早く素直に好意を伝えられていたら、こうはならなかったのだろうか。
それとも。
その先を言葉にせず、綾子は慎太郎をただ、じっと見つめた。
その心は、怒りと憎しみと悲しみの暴雨で満ちている。
純粋な、世界への恨み。
計らずしも綾子は、神代に発生した始祖の妖怪に近づいていく。
人々の不の感情から産まれた悪なる存在に、その心を堕としていく。
慎太郎は、綾子の異様な空気に呑まれ固まるばかりだ。
(慎太郎はきっと、幸せになれて。でも私はそうじゃなくて、そうじゃなくて、そうじゃなくて、きっと……)
ぐるぐる。
ぐつぐつ。
ぐるぐる
ぐつぐつ。
綾子の中で、黄昏色の、夜色の想いがとぐろを巻いて鎌首をもたげる。
きっと、自分が吸血鬼だと。それでも愛してくれと言ってしまえば良かったのだ。
だけど結局、綾子は自分自身以外、誰も信じられなくて愛せなかったのだと。
絶望に支配された異常な思考で確信した。
慎太郎の目の前、慎太郎の預かり知らぬ所で、綾子が堕ちる。
それに本能が反応したのか、彼は一歩後ろに下がりながら、焦って問いかける。
「……なあ、綾子? どうしたんだ?」
「ふふふ、ふふふふふふっ」
綾子は笑う。
今までの何より艶やかで、この世の何より暗い色に陶酔して。
それが何より幸せだと、男を騙す笑みを浮かべる。
他人を羨み妬み憎み、欲求のままに人間を犠牲にする化物に変わる。
「本当に」
ぽつりと呟いて捕食者の笑みを浮かべ、綾子はゆっくりと足を踏み出した。
窓から射した光は既に無く、元の曇り空に戻っている。
綾子は油断しないと言わんばかりに、カーテンを念力で手も触れずに閉じた。
昼前の部屋に、原始的で人為的な薄暗闇が広がる。
カーテンが勝手に閉まった事を疑問に思う前に、慎太郎は綾子の瞳が赤く染まっているのに気がついた。
一瞬、ぐらりと目眩の様なものがして、感じた疑問が飛び、ぼぅっとなった。
そして、そのまま意識が落ちる様な気がしたが、彼女の掌、ひやりとした指先を頬に感じ、はっ、と持ち直した。
「本当に、芽衣との婚約は何の障害にもならないのね?」
か細く震えた綾子の今にも消えそうな声。
儚いそれとは反対に、野生の獣のように爛々と輝く赤光の目に、激しい違和感を覚えながら慎太郎は頷く。
服越しに感じる彼女の体温が、気のせいだろうか酷く冷たい。
「もし、彼女が俺との結婚を望んでいても、必ず説得してわかってもらう」
「……理解してもらえなかったら? おじ様もおば様も芽衣との結婚を望んでいたら?」
「その時は、君を連れて駆け落ちする。苦労はかけないよ。俺は――」
慎太郎はその先を言おうとして、綾子が涙を流しているのに気がついた。
「泣いているよ、綾子」
「ええ、泣いているわね」
綾子は自分が泣いているのに、まるで他人の事の様に言った。
実際、今の綾子は慎太郎の言葉に何一つとして心を動かされていない。
だからこの涙は、人間だった頃の綾子の亡霊が流したものだろうと、何一つ呵責を覚えず嘘をついた。
「貴方の言葉がきっと。嬉しかったのね」
「それじゃあ!」
「まだよ。私は、慎太郎。貴方を信じられない」
悲しげに、儚げに、補食する側だと気付かれないように、綾子は表情を偽り、慎太郎の逞しい胸板に顔を押し付ける。
慎太郎はそんな綾子の演技に引っ掛かってしまう。
彼女を愛しているから信頼しているから、そんな演技をしているだなんて思いも付かない。
そして、言ってしまう。
「どうしたれら信じてくれる。――俺は、綾子の為なら何でも出来る、何でもする! だからっ!!」
化物の女を強く抱き締めて、その致命的な一言を。
綾子はその腕の中で一際邪悪に瞳を輝かせ、本当に? と聞き返した。
慎太郎も、本当だ! と。力強く返す。
吸血鬼は、じゃあたった一つだけ……。と、口を開く。それさえすれば信じてあげると暗に示す。
「綾子が信じてくれるなら、何でも言って」
人間は、化物の発した一言に希望を見出だした。
――こういう話を知っているだろうか。
人は、ただ突き落とされ絶望するよりも、手の届きそうな所に希望を見せてから墜とされるほうが、より絶望の深みが増すと言う事を。
「じゃあ。私の為に、――死んで」
綾子は晴れやかな微笑みを添えて、慎太郎に死を告げた。
それが何よりも邪悪で、好きだった女のそれとは何より似つかなくて、狂気に満ちた破滅的な何かだと、慎太郎は遅まきながら気が付いた。
「っ! 何があった! どうしたんだ! 綾子!!」
「――壊してみたくなったの、私のこの手で。」
(幸せを、全てを)
慎太郎が慌てて彼女から離れるより早く、綾子が動く。
慎太郎の首をぐいと引き寄せ、その大口を開け鋭く延びた八重歯を。
ずぶり。
と、突き刺した。
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