5
校舎の自販機コーナーのベンチで私はぼんやりと座っていた。
模試の結果が返ってきた日からもう一週間になる。あれ以来、勉強机に座っていない。人と一緒にいるのが嫌で友里恵とも遊んでいない。友里恵当人は模試から解放されて思いっきりバスケに打ち込んでいるのだろうし、それでもいいのかもしれないけど。
何に対してもやる気がでなかった。私はずっと岸花栄子に勝つことを目標に勉強してきた。でも勝てないと諦めてしまった。それからは自分を支えている軸を外されたようで、この一週間は何も手につかず、いつもならすぐに終わらせているはずの提出物も初めて出せなかった上に未だに手をつけてすらいない。
私には何もなかった。趣味も特技も。そしてついに、目標も失くしてしまった。
自販機コーナーは静かだ。時折、吹奏楽部の部員が廊下で練習で楽器を演奏している音が聞こえてくるだけで、他の音はほとんどない。物思いに耽るには十分だったが、頭の中に思い浮かぶのは自分には何もないという事実だけだった。
そんな静寂を打ち破る存在が現れた。
「あ、織田巻さん」
現れたのは今一番会いたくない相手、岸花栄子だった。
体操服姿で、肌の見えている部分は紅潮している。よく見れば額からは汗が流れている。
友里恵の言葉を思い出す。そういえば岸花栄子もバスケ部だった。
「ど、どうも……」
私は吃りながら彼女の言葉に返す。よくよく考えれば入学してから一年と少し、彼女と話したことは一度もなかった気がする。
彼女は私から少し離れた場所に座る。ただ自販機コーナー自体が小さく、置いてあるベンチも三人座れれば御の字というほどの大きさしかないのでほとんど隣に座ったと言っても変わらないのだが。
「織田巻さんはこんなとこでどうしたの? 部活とか?」
彼女はあくまで明る気な感じで話しかけてくる。おそらく自分がどう思われているかなんて全く気づいていないのだろう。私の感情が理不尽なのは私自身でも気づいてはいるのだけれど。
「別に、私部活入ってないから……」
「そうなんだ。じゃあなんでここに?」
しつこいくらいに聞いてくる。パーソナルスペースが極端に小さいのだろうか。それが人気者の秘訣なのかもしれないが、今の私にとっては苛立ちの種でしかない。
「ちょっとぼーっとしたかっただけ。それだけよ」
少しキツめの口調で言ってみる。
「そ、そっか……」
すると彼女はさすがに悪いと思ったのかそれ以降話しかけてこなかった。
自販機コーナーが再び沈黙に包まれる。しかし同級生同士がいる状態での沈黙は非常に気まずい。しかも結果的ではあるがこっちが無理矢理黙らせたような形だ。話しかけてほしくなかったはずなのにいたたまれない気持ちになって、逆に何か話題を提供する必要があるんじゃないかと思ってしまう。
そして口をついて出た言葉がこれだった。
「模試、一位だったんだね」
自分で自分のトラウマを抉る形になった。我ながら滑稽だと思う。
「まあ学年とクラス内順位だとね」
「すごいじゃん。風邪引いてたって話も聞いたし」
「まあまぐれだよ。問題文も若干頭に入んない状態で問題解いたし」
聞けば聞くほど自分との差を思い知らされる。こうなってくると謙遜する態度にイライラしてくる。
「なんでそんなに自分のこと控えめに言うの? もっと一位になったこと偉そうに言ってみればいいじゃん」
つい口をついて出てしまった。自分でも言った後にしまったと思った。こっちが勝手に苛ついているだけなのに、何の落ち度もない相手に喧嘩を吹っかけるようなことをしてしまった。
でも彼女は私の意図しない挑発にも動じることはなかった。
「だって私、一番じゃないから」
その言葉を私はすぐに理解することができなかった。彼女は確かに学年、クラス内順位ともに一位を取っていた。なのに何故そんなことを言い出すのだろうか。
「なんで一番じゃないの?」
「私より頭のいい人知ってるから」
それから彼女は少し遠くを眺めるような目で話し始める。
「私、中学の時にテストの点数勝負してた奴がいたの。でもそいつには結局一回も勝つことができなかった」
意外だった。あの謙遜する態度から誰かと勝負しようという気持ちもないんだろうと私は勝手に思っていた。
「そんでさ、私、実は志望校もっと偏差値高い高校だったんだよね。でも私じゃそこに行けなかった。だけど私と勝負してた奴はそこに合格したんだ。それで気づいたの。世の中には私よりも勉強できる奴なんていっぱいいて、私じゃそういう奴らには敵わないってこと」
私は彼女について誤解していたみたいだった。あの謙遜する態度はみんなに好かれたいからわざとしているんじゃない。本当に自分より上の存在を知っているからだったんだ。
「それによく考えてみてよ。私たちなんて全国順位だったら何万位とかだよ? 私たちより頭いい奴らが何万っているんだよ? そう考えたらさ、一位を取るなんて現実的じゃなくない?」
言われてみればそうだ。私はこの学校の自分の学年でのことしか考えていなかった。そして例えそこで一位を取ったところで、全国の何万人の人たちと比べれば何のこともないんだ。
自分の狭量さを指摘されて、私は何も言葉を紡げなかった。
「じゃあ、私、そろそろ休憩終わりだから。じゃあね」
そそくさと自販機コーナーを後にする彼女に私は何も言葉をかけられなかった。
井の中の蛙とはこのことだ。私は自分のちっぽけなプライドを守るために躍起になっていた。でもそんなプライドは世間からみればほんの小さなことでしかない。まさに大海を知らなかったのだ。
私は偶然周りより勉強ができただけだった。でもよく考えてみれば勉強以外のことでは私はトップを取れたことなど一度もなかったはずだ。私は今まで『挫折』していなかったんじゃない。『挫折』から目を背けていただけなんだ。
そして彼女――岸花さんはそれから目を背けなかった。自分にできることをしようといろいろと挑戦している。ずっと誰かに負けたという劣等感と戦い続けているんだ。
私も多分そうだ。私はこれからも誰かに負け続ける。そしてその度に劣等感を抱く。それでも私の人生は続いていく。一生その劣等感を抱えたまま生きていかなきゃいけないし、そしてその劣等感と戦い続けなければいけない。
今回のことは私の人生から見ればただ一回の負けに過ぎない、些細な出来事の一つでしかないんだ。
自販機コーナーの窓から光が筋のように差し込んでいる。
一生戦い続けなければいけない。そう思ったはずなのに、何故か私の心は前よりも少し軽くなっていた。
”私のセカイ”で一番のヒト 水谷哲哉 @tetsu6988
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