十五の九

 楓を見送ると、花祝はすぐに部屋付き女房に命じ、紙と筆を用意してもらった。


 先ほど楓と打ち合わせたとおり、彩辻宮へあてて文をしたためる。


(そう言えば……宮様と連絡を取るのは、宮様のお邸に招かれて以来だわ)


 彩辻宮から左大臣の一の姫に対する恋心を打ち明けられた折。

 花祝は畏れ多くも彩辻宮にこう啖呵を切ったのだ。


“姫君のことを守れるのは、宮様しかいらっしゃらないのです”


 嗚咽を漏らしていた彩辻宮に、あの言葉は届いただろうか。


 一通りの挨拶に続けて、先日の恒例の天覧蹴鞠の最中に突然八つ目犬が現れたことをしたためる。


 つらつらと書き綴る中、小雪が水菓子の桃を運んできた。


 花祝は筆を置くと、ふうっと息を吐き、後ろに控えた小雪へ顔を向ける。


「彩辻宮様が研究なさっている “降禍術” が絡んでいる可能性は高そうだけれど……今回の件は、何が目的であるのかさっぱり見当がつかないわ。あの会場には陛下も左大臣もいらしたのに、八つ目犬は、まるで初めから三条良隆様に狙いをつけていたかのようだった」


 花祝の戸惑いを聞いた小雪は、しばし沈思黙考し。


 やがて、周囲の気配を伺いつつ、膝を進めて花祝ににじり寄った。


「これは私の推測ですけれど……三条様が狙われたことも、やはり左大臣殿が裏で糸を引いていると考えると辻褄が合うような気がするんです」


「どういうこと……?」


「三条良隆様は、彗舜帝のご生母の兄上、現中納言のご子息であり、陛下のお従兄君でいらっしゃいます。左大臣家が権勢をふるう中、今上帝の外戚であるにもかかわらず、三条家はそれほどの政治的権力を持っておりません」


「権力の地固めをしたいと考えている左大臣家にとっては、三条家は目の上の瘤っていうことかしら?」


「ええ。今上帝のご生母であらせられる紅藤女御様はすでに出家され、俗世との縁を断ち切っておりますし、中納言殿も平素は外戚の立場をひけらかしたりはなさらないと聞いています。ですが、ご子息の良隆殿はみやこ一の鞠足と評される御方。天覧蹴鞠で陛下の覚えがめでたくなるのを阻もうとしたと考えられますわ」


 小雪の分析を聞きつつ、花祝はううんと小さく唸る。


 確かに、彗舜帝が母の実家である三条家と手を組めば、左大臣家の権力を削ぐことはできよう。


 それを警戒した左大臣家が三条良隆を害そうとしたというのならば、話の筋は通る。


 が、しかし。




「どうも腑に落ちないところがあるのよね……」




 花祝がぽつりと呟くと、小雪がずずいっと寄ってきた。


「それはどのようなところにございます?」


「まず、陛下に拝謁の機会を賜るという特別褒賞は、本番直前に陛下が急遽ご提案されたものよ。褒賞の内容を聞いて、良隆様の邪魔をしようとすぐに降禍術の呪符を用意しても、間に合わなかったはずよ」


「確かに。天覧蹴鞠の場に八つ目犬を召喚することは、以前から計画されていたのでしょうね」


「それに、召喚されたのが八つ目犬だというのも引っかかるわ。良隆様を害するつもりであれば、私と楓くんを襲った鳳凰狼ほうおうろう老獺ろうだつのようなもっと強き物の怪を召喚するはず。八つ目犬であれば、滝口の武者が駆けつければ退けることができたもの」


「なるほど。召喚された物の怪の強さが中途半端すぎて、相手の目的がよくわからない、と」


「さらに言えば、もし左大臣殿が物の怪が現れることを知っていたとして、そんな危険な場所に大切な一の姫をお連れになるかしら」


「それもそうですわね。相手は “禍もの” ですから、暴走して観覧席を襲う危険もありますし……」


 花祝と小雪は、顔を見合わせて互いに首を傾げ、はああっとため息を吐いた。


「とにかく、まずは彩辻宮様に八つ目犬召喚の件でお心当たりがないかをお尋ねしてみるわ」


 花祝の言葉に大きく頷いた小雪であったが、はたと何かを思い出したように口を開けた。


「お返事と言えば……花祝さまが左大臣の一の姫に贈られた歌のお返事は、まだ届いておりませんよね?」


 そう尋ねられ、花祝は淡く口元に笑みをのせると、ゆっくりと首を振る。


「突然の歌、しかも彩辻宮様と一の姫の間でしか通じないはずの『鶯』を詠んだ歌だったから、姫君も面食らったんじゃないかしら。私としては、お返事をいただかなくとも、姫君がご自身の幸せを考えるきっかけになればいいと思ったんだけど……」


「でも、たとえ姫君が真の幸せを手に入れたいと思っても、お父君の左大臣殿が入内に躍起になっておられては、姫君だけで現状を打開するのは難しそうでございますわね」


「そうね。姫君おひとりの力ではどうにもならないかもしれない。だからこそ、私は宮様に発破をおかけしたの。誰かを心から大切に思う気持ちは、強き力に変えられるはずだと思うから──」




 花祝はそう呟くと、墨の乾きを確かめて、料紙を丁寧に折り畳んだ。


「小雪。それじゃ、この文を彩辻宮様の元へ……」


 紙を受け取ろうと小雪が手を出したとき。


 横から突然伸びてきた手が、さっとそれを取り上げた。



「オレでよけりゃ、偵察ついでに届けてやるぜ」



「ナギ兄っ!?」

「凪人さん!?」


 気配もなく傍に寄られていたことに驚く花祝と小雪。

 すると、姿を現した木隠こがくれは、ニイッと白い歯を見せた。


「二人の話はだいたい聞かせてもらったぜ。内裏の巡回が終わったから、これから彩辻宮んとこでも忍び込んでみようかと思ってたんだよ。こないだの八つ目犬のことは、オレも気になってたからさ」


「こちらでも、ちょうどナギ兄に偵察をお願いしようと思っていたところよ。っていうか、偵察に向かう前に、なんで襲芳殿ここに忍び込んでるのよ?」


「そりゃあ勿論、さっき楓っちが花祝んとこに向かうのを見たからだよ。今日は何もしねえで帰ったみたいで安心したけどよ。せっかくだから来たついでに、うまい菓子と冷えた麦湯でももらっていこうと思ってさ」


 日焼けして野性味あふれる精悍な顔に、人好きのする笑みを浮かべる凪人。


 乳兄弟のよしみからか、花祝はそんなちゃっかり者の凪人に呆れつつも、彼の好きな唐菓子でも振る舞おうと考えた。


 ところが。


「凪人さんっ。菓子をご用意する前に、一言物申したきことがございます!」


 いつにも増して厳しい口調で、小雪が凪人に詰め寄ったのだ。


「な、なんだよっ!? 小雪っちのいないタイミングを見計らって菓子をつまみに来たことなんか、三回くらいしかねえぞっ」


「そんなことを問い詰めたいわけではありません。私が物申したいのは、凪人さんと陛下との関係についてですわっ」


「は? 帝っちとの関係?」


 ぐいぐいと近づいてくる小雪にたじろぎ、凪人が一歩、二歩と後ずさる。


「龍侍司付きの女房である私ですら、陛下の御前に出たのは先日が初めてだったんです! なのに、なぜ凪人さんはすでに陛下と面識あるどころか、“まぶだち” とかいう間柄になっているんですか……っ!?」


「そ、それはまあ、色々あってだな……な、花祝っ!?」


「ちょ、こっちに振らないでよっ! 私だって、ナギ兄が陛下とマブダチになったって、後から知ったんだから!」


 小雪の並々ならぬ気迫から身を躱そうと、凪人と花祝はしどろもどろに弁解を試みる。



 しかし、次の瞬間。



 吊り上がっていた小雪の瞳から険しさが消え、きら星を閉じ込めたがごとくに輝き出した。



「そんな尊い展開になっているのなら、どうしてもっと早くに教えてくださらなかったんですか!? 坂東の野生児と雲上の麗しき貴人の、めくるめく倒錯世界。私の新作物語として世に出せば、内裏中の女子おなごが陶酔するはずですのに……っ」


「「え……えええええええええっ!!?」」




 蝉時雨を引き裂かんばかりの絶叫が、襲芳殿に響き渡る。



「小雪っち、てめ何アホなことぬかしてやがる!?」


「ちょ、小雪!? あなた、マブダチとBLを履き違えていない!?」


 小雪の認識に慌てて訂正を試みる凪人と花祝であったが、時すでに遅し。


 妄想の世界へと羽ばたいていった小雪が我に返るまで、二人は必死で小雪の名を呼び続けたのであった。




(十五、帝の御覧ずる蹴鞠にて、むくつけきこと起こりたれば  おわり)




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