十五の八

 蝉時雨がしゃわしゃわと遠くに聞こえる昼下がり、楓が襲芳殿を訪れた。


 刺すような陽射しを御簾で遮った母屋は薄暗く、孕んだ熱を漉された風がそよそよと優しく入り込んでくる。


 案内の小雪が畳を勧めたが、楓は礼を述べつつも、ひんやりとした板の間に直に腰を落ち着けた。


「楓くん、暑い中わざわざ来てくれてありがとう。先日の天覧蹴鞠もお疲れ様でした」


 花祝がねぎらいの言葉をかけると、浮き出た汗を懐紙で押さえつつ、楓が爽やかに微笑む。


「こちらこそ、応援ありがとう。花祝ちゃんに良いところを見せたかったんだけど……最後の最後で転んで鞠を落とすなんて、みっともなかったな」


 そう言いながら、苦みを噛み締めるように口元を歪める楓。

 甘やかな顔容かんばせが曇るのを前に、花祝がぶんぶんっと首を横に振る。


「みっともないだなんて、そんな……っ! 楓くんが八つ目犬に向かっていかなかったら、三条様がお怪我をされていたでしょうし、そうなったら天覧蹴鞠だって中止になっていたはずよ。最後まで全力を尽くした楓くんはすごくかっこよかったわ!」


「花祝さまの仰るとおりでございますわ! 負傷されてもなお、最後まで鞠足として力を尽くそうとなさるお姿は、見る者の心を打ちましたもの」


 冷えた麦湯を運んできた小雪が、花祝に加勢せんとばかりに会話に加わると、楓はばつが悪そうに頬をかいた。


「花祝ちゃんや小雪さんにそう言ってもらえると救われるよ。けれど、三条殿を庇った時に足を挫いたのは、まったくの不注意だったからね。それがなければ、たとえ途中で “禍もの” との戦いが入ろうとも、最後まで鞠を落とさない自信はあったんだ。三条殿と同じ褒賞をいただくのも、本当ならば辞退申し上げたいくらいだよ。でも──」


 言葉を区切った楓が麦湯を口に含んだ。

 形の良い唇を湿らせて、まっすぐに花祝を見つめる。


「今回の褒賞が、陛下に拝謁してお言葉を交わすことができるというものだったから。……だから僕は恥をしのんで、陛下からの情けを賜ることにしたんだ」


「楓くん──」


 楓の眼差しにはやはり苦みが込められているようで、視線を合わせた花祝の心がざわわと波立つ。


(楓くんが、プライドを捨ててまで陛下との対話を切望していたなんて……。帝をお守りする遣わしとして、楓くんも陛下との信頼関係を深めたいと思っているのね。己の使命に対する楓くんの情熱は、やっぱり心から尊敬できるわ!)


 花祝の心の内の感嘆なぞつゆ知らず、楓はなおも熱と苦みのこもった眼差しを花祝に注ぎ続ける。


御物忌おんものいみのたび、陛下の守護に侍る花祝ちゃんの身を案じてはいても、僕の手で守れることのできない不甲斐なさを常々憂いていた。でも、このままじゃやっぱりだめだ。花祝ちゃんを守るために、僕は何としても陛下にお会いせねばならないんだ……!」


 楓の眼差しと言葉を受けて、花祝の瞳がうるると揺れた。


「ありがとう……。私の身まで案じてくれているなんて、すごく心強いわ! 確かに私も、楓くんは陛下と一度直接お話した方がいいと思っていたの」


「そうか……やっぱり、陛下のお振る舞いには、花祝ちゃんも困っていたんだね」


「もちろんよ!」


 楓の実家が左大臣家とつながりがあるという、その一点のみで彼を信頼するおつもりのない陛下に、いかにして楓の真摯な姿勢を伝えるべきか。

 そのことに腐心する花祝が大きく頷くと、楓は膝を進め、花祝の手をしかと握りしめた。


「花祝ちゃん、でももう心配しなくていいんだ。僕が陛下に拝謁して直接お話しすることができれば、二度と陛下にあんなお振る舞いはさせないよ」


「そうね。楓くんに会えば、陛下のお考えもきっと変わるはずよ!」


「あの御方に変わっていただかなくては、僕もいざと言う時に命賭けでお守りする自信がなくなってしまいそうだ。あんな風に強引に花祝ちゃんに触れるなんて……」


 楓がぽつりと零した最後の一言はよく聞き取れなかった様子。


「ん? 私がどうかした?」


 気安く尋ねたものの、楓はふるりと首を振り、「なんでもないよ」と受け流し、それから話題を変えた。


「それはそうと、もう一つ僕が気がかりなのは、あの時突然現れた八つ目犬のことなんだ。凶日でもないのに真昼間から物の怪が内裏に姿を現すなんて、普通じゃ考えられない事態だ」


 そっと花祝の手をほどきつつ、楓が難しい顔をする。


 同じ “禍もの” でも、人の負の感情で呼び寄せられる邪気とは異なり、物の怪は昼間には滅多に人前に姿を現さない。


 しかも、内裏には陰陽寮によって結界が張り巡らされており、物の怪の類が入り込んでも、たちどころに陰陽師に退けられるはずである。


「私もそれが気になっていたの。陛下のおわす清龍殿に白昼堂々と物の怪が現れるのは不自然よね」


「そうなんだ。まるで、誰かが八つ目犬をわざわざおびき寄せたとしか思えない」


「誰かがおびき寄せたって……まさか──」


 考えを巡らせた花祝が、言葉を詰まらせる。


 特定の場所に、特定の時機を狙って物の怪をおびき寄せたのだとすれば──


 それが可能なのは、過去に禁じられたあの “降禍術こうかじゅつ” を扱える人物しかいない。


「でも……もし物の怪をあの場に呼び出したのが彩辻宮様だとして、一体何の目的でそのようなことをなさったのかしら」


「それは僕も考えたんだけれど、結局よくわからないんだ。もしかすると、宮様の研究成果がまたしても誰かに盗まれ、悪用された可能性もある。八つ目犬が三条殿をわざわざ狙って襲いかかったのも気になるし……」


 楓がううむと唸り、重い沈黙がのしかかる。

 しばらくしてから、楓がおもむろに顔を上げて花祝を見た。


「花祝ちゃんにお願いがあるんだ。彩辻宮様に文をしたためてくれないかな? 天覧蹴鞠で清龍殿に八つ目犬が現れたことをお伝えして、心当たりがないか尋ねてほしいんだ」


「わかった。すぐにでも文を用意するわ! それと合わせて、ナギ兄にもまた調査に動いてもらいましょ……って、そう言えば今日はナギ兄はいないのかしら? 楓くんが襲芳殿ここに来る時は、いつもどこかで見張ってるはずなのに」


「凪人さんなら、今日は珍しく近衛舎人このえとねりの仕事をしていたよ。僕がここへ向かう途中、三人組で内裏を巡回警備していたのを見かけたんだ」


「へえ、珍しい! ナギ兄もストーキングばかりしてないで、たまには真面目に仕事しないとよね」


 花祝がさも当然とばかりに頷くと、小雪がまた口を挟む。


「そうですわ。上司に睨まれでもしたら、坂東に返されてしまうでしょうし。単身上京なされた花祝さまのことが『心配で心配で心配で心配で心配で』追いかけてきたんですから、そこはしっかりしていただかないと」


 凪人の口ぶりを真似る小雪に、花祝も楓もくすくすと笑い声を漏らす。


 麦湯を飲み終えると近々の再訪を約束し、楓は自分の詰める縫殿寮ぬいどのりょうへと戻っていった。

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