十五の六

 楓が良隆を押し倒したのと、八つ目犬が飛びかかったのは、ほぼ同時であった。


 そしてまた時を同じくして、楓が空高く蹴り上げた鞠がかかりの地にぽすんと落ちた。


「楓くん……っ!!」


 御観覧席で破邪の刀を握りしめた花祝が思わず叫ぶ。


 わななく瞳で見据える先では、良隆を庇って地面に倒れた楓の背に、八つ目犬が飛び乗っていた。




『グルヴヴゥゥ……』


 狼ほどもある体躯で楓を地に押しつけ、長い口吻から涎を垂らす八つ目犬。



 以前、“ためし着” の夜に彩辻宮の呪符が呼び寄せた鳳凰狼ほうおうろうとは違い、この物の怪は人の肝を喰らうということはない。


 ただし、好物が動物の生き血であり、獲物に噛みつき、鋭い牙で吸血するのだ。

 噛まれた場所が悪かったり、救出が遅れれば、大量出血で死に至ることもある危険な物の怪である。


 八つ目犬は、楓のうなじに狙いを定めた様子で、大きな口をがばりと開けた。


 ──と、


「く……っ!」


 すんでのところで楓が腕を立てて跳ね起きる。

 その勢いで、八つ目犬が体勢を崩して転がった。

 が、すぐに起き上がり、毛を逆立てて楓を威嚇する。


「三条殿っ、早く避難を!」


 座り込んで呆然としていた良隆であったが、その声で我に返った様子。


「か、かたじけないっ!」


 震える声でそれだけ告げると、東庭の隅に逃げた鞠足達の方へと走り去っていった。




「ナギ兄っ、お願い! 楓くんに開谷かいこくの太刀を渡してあげて! 控えの椅子に立て掛けてあるわ!」


 彗舜帝の守護で動けぬ花祝は、己の手足の代わりを凪人に託すべく、御簾のすぐ外に立つ乳兄弟に向かってまくし立てた。


「ラジャ!」


 木隠こがくれならではの素早さで開谷の太刀を取りに行く凪人の後ろ姿を一瞥し、視線を再び楓へと向ける。


 禍ものを斬ることのできる開谷の太刀さえあれば、八つ目犬を滅するなど楓にとっては造作もないはずである。




 丸腰なれど隙を見せない楓と対峙し、八つ目犬がぐるぐると唸りを上げている。

 生き血を欲する八つの瞳は金色にぎらつき、牙を剥く口吻からはだらしなく涎が垂れ続けている。


 そんな八つ目犬を気迫を込めた眼差しで射すくめつつ、楓はじりじりと間合いを広げていく。


 東庭の隅へと逃げた観衆や鞠足達は、固唾を飲んでその対峙を見つめていた。


 一方、孫廂に並ぶ公卿達は、御簾の内で息を潜めてことの成り行きを見守っているようである。


 陛下もまた、お口元を真一文字に引き結んだまま、じっと楓の動向を見つめていらした。




『ギャウッ!!』


 痺れを切らした八つ目犬が楓に飛びかかった刹那。


 楓が硬いくつの先で八つ目犬の喉元を正確に蹴り上げる。


『ギャンッ!』


「楓っち!」


 もんどり打って背中から落ちた八つ目犬から目を離さぬまま、駆け寄った凪人から開谷の太刀を受け取る。


 そのまますらりと刀を抜き──




 ザシュッ!




 大きく一歩踏み込んで、太刀を振り下ろした。





 刹那の静寂。





 然る後────


 観衆や鞠足の集まる東庭から、安堵のため息と大きな歓声が湧き上がった。




「よかったぁ……!」


「花祝さまっ!」


 へなへなとへたり込んだ花祝を、小雪が慌てて後ろから支える。




 今になってようやく滝口の武者数人が駆けつけてきたが、楓の前で八つ目犬のむくろが邪気の塵となって浄滅していく様を見ると、ほっとした表情で足を止めた。



 ❁.*・゚



 八つ目犬の突然の出現で混乱をきたした蹴鞠会場であったが、楓の功で怪我人もなく、すぐに落ち着きを取り戻した。


 孫廂に居並ぶ公卿達の間にも安堵の空気が広がる中、大会を取り仕切る宮内卿が御観覧席の陛下にお伺いを立てに来た。


「陛下、蹴鞠の続きはいかがいたしましょう? 鞠足や観衆は競技の続行を望んでおるようですが……」


「両組とも、千に届かんというところまで来ておったからな。勝負をつけねば皆納得出来ぬであろう。万一に備えて滝口を会場の警備に当たらせるゆえ、競技は続けるがよい」


「はい、かしこまりした」


 引き下がった宮内卿が部下に指示を出し、競技の再開に向けて会場が整えられていく。


「陛下……。楓くんの記録はどうなるのでしょう?」


 ようやく平静を取り戻した花祝は、おずおずと陛下にそうお尋ね申し上げた。


 八つ目犬が現れた時、楓の属する日車組は競技の真っ最中であった。

 しかし、桔梗組の三条良隆が襲われそうになっているのを見た楓は、己の蹴り上げた鞠を受けることなく助けに向かい、そのせいで鞠が地に落ちてしまった。


 花祝としては、やむにやまれぬ事情を陛下に酌んでいただき、楓が鞠を落としたことはなかったことにしていただきたいと思ったのだ。


「うむ……」


 御簾の外の様子をじっとご覧になりながら、陛下が難しい顔をなされる。


「状況が状況であっただけに、龍染司が鞠を落とした手前からやり直しとするのは構わぬが……果たしてあの足で鞠を蹴ることはできるであろうか」


「え……っ?」


 そのお言葉に、花祝は藍鉄の瞳が眼差す先を目で追った。


 他の鞠足達に武功を称えられながら懸に戻る楓であるが、よくよく見ると左足を庇うようにぎこちなく歩いている。


「楓くん……まさか、三条殿を庇った時に……」


「あやつは恐らく鞠足として競技に参加し続けることを望むであろうが、これまでのような八面六臂の活躍は難しいであろうな」


「そんな……っ!」


 言葉を詰まらせた花祝だが、御簾の内でのそんなやり取りを知る由もなく、日車組の九百八十二回目、楓の二足目の鞠より競技が再開された。


 痛めた左足を軸にして二足目を高く蹴り上げた楓だが、直後に体をよろめかせる。

 崩れかけた体勢から何とか落ちてきた鞠を蹴ったが、三足目は思いも寄らぬ方向へ。


 他の鞠足が必死に足を出して何とか鞠を拾ったものの、鞠の軌道は乱れ、その次の鞠足で落としてしまった。


 九百八十六回で、日車組は桔梗組に懸を明け渡す。


 対する桔梗組は、九百四十二回目からの再始動。


 声援が飛ぶ中で、三条良隆を中心に、安定した蹴り足で回数を重ねていく。


 しかし、九百七十七回目で鞠を落とし、日車組と交代。

 大きな落胆の声が上がるが、一方で日車組の鞠がいよいよ千に達するであろうという期待が膨らんでいく。


 あと十五回。

 楓が持ちこたえてくれれば────


 花祝も息を止めて体を強ばらせ、鞠の行方を見守る。


「九百九十一、九百九十二、九百九十三……」


 次第に大きくなる観衆の声。


 九百九十五回目の鞠が楓の元へと届く。


 一足目を右足で蹴り。


 高く上がった二足目を蹴ろうとしたその刹那。




 楓の左足がぐにゃりと曲がり、体が前に倒れ────




 鞠は無情にも地に落ちた。



「ああ……っ」

「くぅ……っ」


 東庭を囲む観衆と同じく、花祝も小雪も思わず落胆の呻き声を上げる。


 がっくりと肩を落として懸から出る日車組に代わり、最後の好機とばかりに桔梗組が配置につく。


 九百七十七から始まった数え声は千まで途切れることはなく、結局桔梗組の勝利に終わった。


 両組の熱戦と鞠足達の健闘に、観衆からも惜しみない歓声が上がる。


 公卿達も大いに盛り上がり、当初の褒賞に上乗せして、負けた日車組の鞠足達にも褒美を出すと言う公卿まで出てきた。




 会場全体が興奮に湧く中で、楓がどのような表情をしていたか、花祝にはわからなかった。


 涙で滲む視界に映る光景を、ただただ御簾越しにじっと見つめていたのであった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る