十五の五

「陛下、此度の対抗戦は、鞠足の割り振りが上手くいきましたな。日車組と桔梗組、どちらもなかなか鞠を落とさず善戦しておりまする」


 陛下の御観覧席の右隣の几帳から、親しげに声が掛けられた。

 観覧席の配置からして、左大臣に次ぐ地位にある右大臣であろう。


「当代きっての名足、検非違使別当けびいしべっとうの三条良隆殿が活躍なされるのは大方の予想どおりでございますが、日車組にもまた素晴らしき鞠足がおりますな」


 右大臣の言は、楓を指しているのであろう。

 龍染司として昇殿を許される高位を賜っているとは言え、実際に楓が詰めているのは宮中で使われる衣服を縫製する縫殿寮ぬいどのりょうである。

 それゆえ、右大臣は初めて見るの鞠足がどこの誰なのかわからず、少なからぬ驚きを感じているような声色であった。


 そんな右大臣の言葉に、陛下がお答えなさる。


の者は、龍染司の長谷部楓と申す者だ。思うところあって此度の鞠足に選んだが、なかなかどうして、しぶとく踏ん張っておるな」


「なんとまあ、御自らご指名なされた者の活躍が、まるで面白くないかのようなお口ぶりにございまするなあ」


 笑いを含んだような右大臣の声色に、几帳越しの会話を陛下の横で聞いていた花祝も、思わず苦笑いを浮かべた。


 日車、桔梗の両組とも、蹴った数はそれぞれ七百を越えているが、大きな差が開くことはなく、観衆が息をつくいとまも与えぬほどの接戦になっている。


 互いに一歩も退かぬ中、いっそう活躍が際立つのは、やはり桔梗組の良隆と日車組の楓である。

 この二人だけは競技が始まってからこれまで一度も地に鞠を落としておらず、おのずと衆目を集めていた。


「さすがは龍染司様ですよね、花祝さまっ! 試し蹴りの時は緊張なさっていたご様子でしたけれど、俊敏でキレのある動き、爽やかな笑顔、どこをどう切り取っても素敵ですもの。三条様もさすがですが、女子おなごの熱き視線は龍染司様が独占なさっておりますわ!」


「そうね、さすが楓くんよね」


 興奮しきりの小雪の言葉に、半ば上の空で受け答える花祝。


 楓が鞠を受けるたび、心臓が動きを止めてしまいそうなほどに花祝は緊張してしまう。


 回を重ねるごとにその緊張は増していき、扇を握る手にもついつい力が入ってしまう。


(楓くんが鞠を落としませんように。陛下との対面の機会を賜れるよう、鞠の精もどうぞ力をお貸しください……!)


 楓に熱い視線を送り続ける花祝を陛下は横目でご覧になり、いかにも面白くないとばかりに大きなため息をお吐きになった。



 ❁.*・゚



 両組の鞠を蹴り上げた回数が八百に届いたあたりで、さすがに鞠足達の疲れがあらわになってきた。


 鞠を地に落とすことが増え、両組の交代が頻繁になってくる。


 千を数えるまで楓が鞠を落とすことのないようにと、そればかりを願う花祝にとっては、勝敗の行方などもはやどうでもよくなっている。


「龍染司様、素敵!」を連発する小雪の声も、面白くなさそうな陛下のため息も聞き流しつつ、ひたすら楓を見守る花祝であるが、そんな中でいよいよ両組の競う数が九百を越えてきた。


 どちらが先に千を数えてもおかしくない接戦。


 勝利を目前にした鞠足達は、我らが先に千に届けとばかりに、これまで一度も鞠を落としていない良隆や楓に鞠を集め始めていた。


 誰かに蹴り渡しては、すぐにまた誰かから鞠を蹴り渡される状況で、良隆も楓もさすがに息を切らし、僅かな間隙に狩衣の袖で額の汗を拭っている。


 観衆の声援も最高潮に達しようという中、良隆の率いる桔梗組は九百四十二回目で鞠を落とした。


 交代してかかりに入る日車組は、九百三十回目からの開始である。

 千を数えるまであと七十回。

 上手くすればこの攻めで勝利を得られるとばかりに、やはり鞠は楓に集められていく。


「ああ、楓くん……っ! 頑張って!!」


 思わず声に出して応援する花祝であったが、その刹那、ふと背筋に悪寒が走った。




「え、何? 今の感覚……」


「花祝? 如何いかがいたした?」


 眼差しを鋭くして辺りを見回し始めた花祝の異変に気づき、陛下がお尋ねになった。


「“まがもの” の気配がしたように感じたのですが……」


「それはまことか? 負け組の鞠足が悔しさで邪気を呼ぶことはあるやもしれぬが、勝負のついておらぬ今はまだそのような時機ではあるまい」


「ええ、確かに。凶日でもありませんし、このように皆が楽しんでいる最中に邪気が集まるはずなど──」




「きゃあああっ!」

「うわぁぁっ!」

「“まがもの” だ! 物の怪が出たぁーっ!」




 懸を囲む観衆の間から、突然悲鳴が上がったかと思うと、人々が叫び声を上げながら散り散りに逃げ惑い始めた。


 膝立ちになった花祝の目が捉えたのは、何かを探すように観衆の間をうろうろと歩き回る物の怪、“目犬めいぬ”。

 その呼び名の通り、頭に八つある黄金色の目をぎょろぎょろと動かしながら、唸り声を上げている。




「陛下っ! 物の怪です! 八つ目犬があそこにっ!」


「急ぎ陰陽寮と滝口に伝え、物の怪を討て!」


 花祝の言葉を受けた陛下が、観覧席の後方に控える宮内の官吏に鋭いお声でそうお伝えなさる。


「花祝さま……っ!」


「大丈夫、八つ目犬はそれほど強い禍ものじゃないし、滝口の武者がすぐ駆けつけるわ。小雪はそのまま控えてなさい」


 声を震わせる小雪に落ち着いた声音でそう告げると、花祝は御簾の外を注視した。


 懸の内にいる日車組が間もなく目標の千に到達しようというところで、相手方の桔梗組は懸の際で固唾を飲んでそれを見つめている。

 鞠足達はみな鞠の行方に全神経を集中させており、異変には未だ気づいておらぬ様子。


 すぐにでもこの御簾の外に出て、楓に異変を伝えたい。


 しかし、遣わしである花祝の第一の使命は、彗舜帝の守護である。

 今は陛下のお傍から離れるわけにはいかない。


 懐から取り出した “破邪の刀” を握りしめて焦る花祝。


 その時、へばりついた御簾のすぐ外に、空から黒い影が降ってきた。




「物の怪が出たって楓っちに伝えりゃいいのか?」


「ナギ兄っ! いたの!?」


 孫廂まごびさしの屋根の上で蹴鞠を見物していたのであろう、御観覧席のすぐ前に降り立った凪人が振り返り、白い歯をにかっと見せて花祝に親指を突き立てた。


「ったりめーだろ!? 帝っちの公然セクハラを俺が監視しねーわけねーだろーが。それよか楓っちの蹴鞠をガチで止めていいんだな? あと二十もしねえで千にいくけど?」


「……っ、それは……」


 凪人の念押しに、花祝は言葉を詰まらせる。


 日車組が千を蹴り終えるまでに楓が鞠を落とさねば、楓は陛下より拝謁の機会を賜ることができる。

 楓の信頼を取りつけるにはまたとない好機に違いない。


 それに、懸の中にいる楓は “開谷かいこくの太刀” を差していない。

 いくら八つ目犬相手だとしても丸腰で向かうのは危ないし、ここは清龍殿の警備に詰めている滝口の武者に任せるのが賢明であろう。


 八つ目犬が懸の中に入りさえしなければ、楓が鞠を落とすことはないのではないか。




 花祝の逡巡が終わらぬうち────




「危ないっ!!」


 懸から楓の鋭い声が上がった。




 はっとしてそちらを見る花祝。




 楓は、空高く蹴り上げられた鞠をくつで受けることなく、懸の際にいる三条良隆────


 否、


 に向かって突進していった。

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