十五、帝の御覧ずる蹴鞠にて、むくつけきこと起こりたれば
十五の一
息を呑むほどに美しい横顔からこぼれ出た、花びらが落ちるがごとき儚い吐息。
左大臣の一の姫が花祝の真横を御簾越しに通り過ぎ、
(きっと姫君は蹴鞠の観覧になんて来たくはなかったんだわ。陛下に目通りすることも、将来の后妃と周囲に目されることも無理なことだと、姫君はきっとわかっていたのね……)
いっそ后妃の座を諦めることができれば、姫の心もどれほど軽くなるであろう。
しかし、父親である左大臣がそれを決して許さぬのだ。
左大臣家の姫として生まれた以上、贅を尽くし珠のごとく磨かれる暮らしと引き換えに、己の人生は家の繁栄のために捧げなくてはならない。
「陛下……」
「うん?」
「陛下には聞こえましたか? 諦めとやるせなさに満ちた姫君のため息が……」
「…………」
花祝は隣にお座りになる陛下にそう尋ねたが、陛下は黙っておられる。
お返事を待たず、花祝は己の心に積もっていく重苦しい苦みを吐き出すように呟いた。
「この国に後宮は要らない、后妃の存在を政に利用させない──国の民の幸を思い、ご自分の意志を貫く陛下を私は尊敬し、お支え申し上げたいと思っています。けれど、その気高きお志の陰で、あのように辛い立場に置かれる方がいると思うと、なんだかやるせなくて……」
「花祝」
花祝の
迷いに揺れる瞳を、藍鉄の瞳が射竦めるかのごとくしかと見据える。
「己の意志を貫くがために、辛き立場に追い込まれる者が出てくることはやむを得ぬ。目指すものに手を伸ばせば、綺麗事だけで済まされぬこともある。だが、悲しむ者を前にして己の無力さに嘆息するばかりでは前には進めぬ。時には別の角度から考えることも必要だ」
「別の角度、とは……?」
「悲しむ者に手を差し伸べられるのが、まことに己しかおらぬのかということだ。桜津の国の民が日々を幸せに暮らす礎をつくるのは、帝である俺にしかできぬこと。しかし、籠に閉じ込められた小鳥を救い出すのは、必ずしも俺にしか出来ぬことではあるまい」
「あ……」
温かく、力強く花祝を見つめる藍鉄の瞳。
眼鏡の奥にそれと同じ色の瞳をもつ少年の姿が思い浮かぶ。
“ 姫君のことを守れるのは、宮様しかいらっしゃらないのですから──”
彩辻宮の前でそう啖呵を切った花祝であったが、思うに任せて放った言葉は、図らずも陛下のお考えと重なるものであった。
(陛下の仰るとおりだわ……。私は、あの姫君に幸せになっていただきたい。でも、本当の意味で誰かを幸せにできるのは、その人のことを心から思う人だけなのよね)
顎に添えられた手をそっと握って離しつつ、花祝は陛下をまっすぐに見つめ返した。
「そうですね……。民の暮らしの礎は陛下にお任せせねばなりませんけれど、その上に築く幸せは、それぞれが見つけていくものですよね!」
「その通りだ。……だが、花祝の幸せだけは、他の誰の手にも委ねたくはないがな」
「えっ?」
「さあ、大役を立派に果たした小雪を褒めてやろう。御簾の外に出るぞ」
「ちょっ、陛下、今何て……っ」
呟かれたお言葉を確かめんとした花祝であったが、御簾をたくし上げた陛下に手を引かれ、そのまま小雪の待つ孫廂へと出た。
「花祝さまっ!」
「小雪っ!」
主の顔を見た途端、緊張の面持ちを緩ませた小雪を、花祝は飛びつくように抱きしめた。
「大変なお役目だったけれど、堂々として立派だったわ! さすがは小雪ね!」
「花祝さまぁ……っ! 本当はめちゃくちゃ緊張しておりましたぁっ! うえぇ……」
珍しく声を震わせて
その光景を眺めつつ、
「小雪。大儀であったな。さすがは花祝が頼りにするだけある。俺の側仕えに引き抜きたいくらいだ」
「そっ、そんな! 実家の格からして畏れ多いですし、何より私は花祝さまに一生お仕えするつもりでおりますからっ」
陛下より労いのお言葉を賜り、花祝から身を離した小雪が慌てて平伏すると、陛下は楽しげにくつくつと喉を鳴らされた。
「まあ、俺が振られるのはわかっていたから気にするな。ほれ、御簾の外を見よ。観衆も揃い、鞠足達が
陛下が閉じた扇で御簾の外を指し示され、花祝と小雪は扇の先を視線で辿る。
左大臣と小雪のやり取りに気を取られていて東庭の様子までは窺っていなかったが、蹴鞠の会場は既に準備が整い、陛下のご臨席を待っている様子であった。
花祝は背を伸ばし、懸の隅に固まる数人の鞠足を見やる。
すると、その中に一際甘く爽やかな
「楓くんだわ……!」
喜色を滲ませた花祝の声に、斜め後ろに控える小雪も「えっ!?」と声を弾ませる。
「まあ……っ!
小雪の言うとおり、懸の外に待機する鞠足達は、日車(ひまわり)と桔梗、それぞれの花の色を表した揃いの狩衣を纏っている。
同じ色の狩衣を着た数人の中に混じっても、立ち姿が凛として甘やかに整う容姿の楓は一際目を引くようで、
ほう、と知らず感嘆の息を吐く花祝を横目にご覧になった陛下が、目を眇めて呟きなさった。
「かの龍染司は、名を楓と言ったか。それで花祝は本日の
不機嫌を隠さぬ声音に、花祝の肩がびくんと跳ねる。
何ら後ろめたいことはしていないはずなのに、ジト目をなさる陛下の視線に耐えかえねて、正直に申し上げてよいものか戸惑ってしまう。
「え……っと、今日の蹴鞠大会は、百年もの歴史を持つ伝統行事でございましょう? その場に相応しい襲の色目を選ぶのに、夏の配色である “若楓” ならば、彼の応援にもなるかと思って──」
しかし、陛下はそんな花祝の説明をお聞き流しになりながら、手にしていた扇をすっと御簾の下に潜らせなさった。
そのまま孫廂の縁まで、扇を押し出す。
「……? 陛下、一体何をされてらっしゃるのです?」
花祝が問うと、陛下はすまし顔でお答えになった。
「うっかり手が滑って、扇を落としてしまった。すまぬが小雪、そなたが御簾の外へ出て、俺の扇を拾うてはくれぬか」
「は、はああっ!? 手が滑ったって、今のどう見てもわざと扇を御簾の外へ押し出しましたよね!? どうしてそれを小雪に拾わせるんですか!?」
謎の行動の意図を問い詰めようとする花祝であったが、陛下はそらとぼけたお顔のまま、ふいっと目を逸らしなさる。
「は、はあ。陛下の仰せであれば……」
小雪も首を傾げつつ、御簾に近づき、外に出ようと裾をめくった。
御簾の内が垣間見える、その一瞬を狙い────
「きゃっ!?」
突然、陛下が花祝をその御身に抱き寄せた。
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