十四の七
「あれが、左大臣殿と一の姫……」
御簾の隙間を縫うように目を凝らしつつ、花祝が小声で呟いた。
花祝と陛下が待機する
先頭を歩く衣冠(上級貴族の勤務服)を纏う男が左大臣、
政に関わりのない花祝にとって、左大臣を目にするのはこれが初めてである。
もっと
しかし、
左大臣の後ろに見えるのは、二人の侍女に挟まれ、周囲の視線から守られるようにして歩く一の姫。
顔をうつむけているため、その顔貌はしかとは確かめられないが、艶やかでさらさらと流れる黒髪は大層美しく、目の覚めるような豪華な十二単に引けを取らぬ華やかさがある。
しずしずと歩みを進める所作も洗練されており、父親である左大臣とは似ても似つかぬほどだ。
(彩辻宮様が御心を奪われるのもわかる美しさと品の良さだわ。
雅やかな
絵巻から出てきたような美しき二人を思い起こすと、同時に胸がつきんと痛む。
だが、今はそんな想像をしている場合ではない。
花祝はふるりと首を振り、左大臣と小雪のやり取りを息を潜めて見守った。
足音がいよいよ近づく頃合を見計らい、小雪が両手を床について頭を下げて待つ。
近づいた足音がぴたりと止まった。
「おや……見慣れぬお顔の女官殿でごさいますな。陛下にお目通り願いたく、取次をお願いできますかな?」
言葉遣いこそ公卿らしくまろやかなれど、その声は低くしゃがれ、小雪を上から押さえつけるような居丈高な空気が出ている。
歳若い女房ならば、この一言で萎縮してしまいそうなものであるが、小雪は顔を上げると左大臣に対し堂々たる態度で返答した。
「左大臣殿にはお初にお目にかかります。私は龍侍司付きの女房にございます。ただ今陛下は我が
普段からはきはきとした物言いをする小雪だが、今に限っては常よりも大きな声で、居並ぶ公卿達にも聞き取れるほど明瞭に言葉を発している。
「あの度胸、さすが花祝の腹心の女房だけあるな」
はらはらしつつ小雪を見守る花祝の隣で、小声でそう呟いた陛下が楽しげな笑いを漏らされた。
当の左大臣は、龍侍司付の女房が自分の応対をするとは思いも寄らなかったはず。
しかし、周囲がこのやり取りに聞き耳を立てていることを察し、敢えて鷹揚に受け答えてみせる。
「いや、危急の用ではございませぬ。これまで邸の外に出たことのない我が娘に、世に聞こえし
特に「快く」の部分をしっかり強調するあたり、観覧席に座る栄誉をめぐる争いに自分達が勝利したかのような印象を与えんとしていることが見え見えである。
(観覧席の奪い合いもしていなければ、后妃の座を争ったつもりもないのに、あんな誤解を生むような言い方をしなくても……)
御簾の内で唇を噛む花祝であったが、小雪は袖元を口に添え、おほほ、と軽やかな笑い声を飛ばした。
「姫君に観覧席をお譲り申し上げたことなど、我が主にとっては取るに足らぬこと。あの席はあくまでも形式的なもので、畳すら置かれておらぬ空席でございましたの。我が主は陛下の守護につくため、元々陛下の観覧席に同席する予定でおりました。宮内省の方で形式的に観覧席を設えてくださいましたが、空いている席をお使いになるだけのことですから、我が主へのお気遣いは無用にございますわ」
小雪の返答の鮮やかさに、花祝はほう、と感嘆の息を漏らした。
“ 蹴鞠大会の観覧席に特別な意味を持たせようとするから、そのような思惑が生まれるのだ。ならば、その席に何の意味も持たせなければよいだけのこと”
先程陛下が事も無げに仰ったその言葉の意図を、花祝はようやく理解した。
そして、陛下が何故小雪に左大臣の応対をお任せしたかということも。
(なるほど、あの席は初めから誰も座る予定がなかったということにして、左大臣が観覧席に持たせようとした特別な意味を打ち消そうとしているのね!)
左大臣相手にも物怖じしない度胸といい、機転のきいた物言いといい、やはり小雪は有能な女房である。
と、花祝が悦に入っていると、不機嫌さを滲ませながらも、鷹揚な雰囲気を崩さない声色で左大臣が言葉をつないだ。
「いやはや、龍侍司殿に失礼なことを致したかと恐縮しておりましたが、それを聞いて安心しました。それにしましても、遣わし様というのは中々大変にございますな。大切なお務めとは言え、昼夜を問わず陛下に侍るなど、側仕えの女官と変わりないではございませぬか。邸の奥で歌や箏ばかりやっておる娘とはまるで違う。側仕えのあなたを見ておれば、その逞しさにも察しがつきまする」
「「な……っ」」
左大臣の反撃に、御簾を隔てた花祝と小雪が同時に声を上げた。
こちらを気取られてはまずいと、花祝は慌てて袖元で口を押さえる。
表面上は龍侍司という職を労うかのようでいて、要するに所詮女官として出仕する花祝は陛下の后妃として相応しくない、后妃として迎えられるのは娘のような深窓の令嬢こそ相応しいのだ、と牽制しているのである。
さらには、小雪の態度が生意気だという嫌味まで付け加えて。
頭に血が上った花祝は、小雪を庇おうと膝を立てて御簾に手をかけた。
「待て。小雪に任せよ」
その手に御手を重ねて止めた陛下が、低くそうお告げになる。
「でも……っ」
気の収まらぬ花祝がそう口を開きかけたとき、御簾の向こうから再び小雪の声が聞こえた。
「
左大臣の嫌味を真正面から受けずにさらりと躱す小雪の言葉に、花祝はほっと小さく息を吐いた。
「小雪……」
「花祝、小鳥というのはもののたとえであるぞ。この場合の小鳥と言うのはだな……」
「そっ、それくらいはわかりますってば!」
桜花京の貴族社会で多用されるもののたとえに疎い花祝だが、さすがに小雪が自分を庇ってくれたのだということは伝わった。
小雪の鮮やかな応対のおかげで、周囲の目には后妃の座を射止めんとするあまりに左大臣が独り躍起になっている、何とも滑稽な絵に映っているに違いない。
これ以上対抗心を剥き出しにして醜態を晒すのは得策ではないと判断したのか、左大臣は大きな咳払いをすると、「それでは」と言い捨てて、陛下の観覧席を通り過ぎた。
その後を、しずしずと付き従う一の姫。
息を呑むほど美しいその横顔が御簾越しに垣間見えたかと思うと、悲しげなため息が確かに花祝の耳に届いたのであった。
(十四、彗舜帝の蹴鞠を御覧せたまひしをりに、様々なること起こりしかば おわり)
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