十四の六

 今上帝から一介の女房が名を呼ばれるという想定外のことに恐れ畏まり、小雪は全身を小刻みに震わせながら平伏する。


「小雪。そなたのことは花祝からよく聞いておる。機転がきき、主人思いで、花祝も全幅の信頼を寄せておるようだな。そんなそなたに、折り入って頼みがあるのだ」


「……っ!?」


 陛下に直々にお返事を申し上げるのは畏れ多いと、身を固くしたまま戸惑う小雪に、花祝が「大丈夫よ」と優しく声を掛ける。

 主人に促された小雪は、ようやく少し頭をもたげ、御簾の向こうのやんごとなき人影を窺った。


かしこくも私への頼みごととは、如何様なことにございましょう……?」


「そなたならば、俺が先程話した策の意図もしかと汲んでおるであろう。なればこそ、左大臣への応対をそなたに任せたいのだ」


「私に……でございますか?」


「うむ。左大臣は、己の娘と俺を引き合わせようと、観覧席の急ごしらえを謝罪する名目で俺の元へと来るはずだ。そなたには、俺や花祝の代わりにその応対をして欲しい」


 両手を床についたまま陛下の指示を仰ぐ小雪の隣で、花祝は小さく首を傾げた。

 ご自分の側仕そばづかえである内侍司ないしのつかさの女官ではなく、小雪に応対を任せる陛下の意図を測りかねた花祝であったが、小雪にはしっかりと届いた様子。


 畏怖と緊張に揺れていた瞳に力が宿り、小雪は今一度深く頭を下げた。


「かしこまりました。陛下直々に御下命を賜るなど恐悦の極みにございますれば、必ずやそのお役目果たさせていただきとうございます」


 力強き小雪の言葉に、「うむ、頼んだぞ」とお答えなさる陛下。


「そなたの応対が済むまで、俺と花祝は昼御座ひのおましに控えておる。万事良しなに。ああ、それから、頼みごとと言えば、もう一つある」


 そこまで仰った陛下の御簾越しの御気色みけしきが、再び悪童のそれへと変わる。


「聞くところによると、そなたの執筆しておる恋物語が内裏の女官の間で広まっておるようだな。しかし、物語では龍染司ばかりが活躍し、俺の出番が少ないと言うではないか」


「え……えええっ!!?」


 これまた想定外の話題が振られ、花祝と小雪は目を丸くして顔を見合わせた。


「そっ、それは……っ。畏れ多くも、私は陛下に拝謁いたしたことが一度もございませんゆえ、妄想をはたらかせるには限界がございまして……」


「ならば、妄想をはたらかせるに足る姿を、俺がそなたに見せればよいのだな?」


 楽しげに弾む声が耳に届いた。

 かと思うと。


 御簾の内から細く長い指が覗き、御簾をたくし上げた。


 その気配に小雪は思わず顔を上げ────


 目を見開いて石のごとくに固まった。


「……!? ……っ! …………っっ!!」


「どうだ、これで俺のことも書きやすくなるであろう? 次からは、花祝の相手役として、俺の方を取り立ててくれよ?」


 そう仰った陛下は、ははっと楽しげな笑い声を零すと、花祝に向かって手招きした。


「では、後は小雪に任せて花祝はこちらへ。左大臣とのやり取りを御簾の内で楽しむとしよう」


「は、はい……」


 膝を進めつつ、ちら、と小雪を見やると、陛下の端麗なお姿をまともに見たせいで、完全に思考回路が止まっている様子である。

 そんな小雪を残していくことに一抹の不安を感じつつも、彼女の有能さを信じる花祝は陛下のご指示に従ったのだった。


 ❁.*・゚


「陛下、突然あんなことをなさって小雪を驚かせるなんて、お人が悪すぎます!」


 清龍殿の母屋の内、陛下のいらした上御局うえのみつぼねから昼御座ひのおましへと移動した花祝は、頬をふくらませて陛下をなじり申し上げた。


 陛下の守護にあたる花祝と違い、小雪のような立場では、陛下のご尊顔を拝する機会など生涯に一度とてあるはずがない。

 万が一にも陛下の御前に出る機会を賜ったとしても、ご尊顔を直視することは到底許されぬのが常識である。


 しかし、先程の陛下のお戯れはあまりに突然のことで、さすがの小雪も混乱の極みに陥ってしまったのだ。


 加えて陛下はこのご容貌。

 見目麗しいとの噂をいくら耳に入れていたとしても、思いがけず直視してしまったとあらば、心臓が止まるほどの衝撃を受けたに違いない。


 小雪の主人として一言もの申さんとした花祝であったが、陛下は楽しげに忍び笑いを漏らしつつ、孫廂の観覧席に近い場所にお座りなさった。


「花祝から聞く話で、俺も小雪に親しみをもっておるのだ。そなた腹心の女房には、俺も気に入られておきたい。そのうち何かと世話になるだろうしな」


「そのうちって、これからも小雪を頼りになさるおつもりなんですか? いくら陛下の頼みでも、小雪を困らせるようなことを仰られては大変ですっ。小雪に話がある時は、必ず私を通してくださいね!?」


「なんだ、側仕えの女房に焼いておるのか? やはり花祝は可愛いな」


「焼いてませんっ! 親友でもある小雪を心から気にかけているだけですっ!」


 いつも通りの陛下の軽口に、花祝は思わず向きになって言い返す。


 頬をふくらませながらも、なぜか花祝の心は弾む。

 楽しげな陛下の顔容かんばせを拝見し、なんだか無性に嬉しくなる。


(今日は陛下とこんな風にお話する機会なんてないと思ってたから……って、私ったら何を浮かれてるの!? 今ここに私がいるのは、左大臣の思惑を外すため。陛下をお支えするためなんだから、その本分を忘れちゃダメよ!)


 緩みかけた口元に力を入れて気を引き締めると、花祝は陛下の斜め後ろに座して控えた。


「せっかく花祝と会えたのだ。そなたに触れたい気持ちは山々だが……そなたを守護に置くという建前もあるし、今日のところは “すきんしっぷ” を控えねばならぬな」


「当たり前ですっ! 公衆の面前でセクハラなんてされたら、私もう立ち直れませんからっ! ええ、絶対に残念だとか、ちょっとだけ寂しいとか思ってませんからっ!」


「まあそう意地を張るな。……ほら、御簾の外を見てみろ。右大臣や大納言、参議といった公卿くぎょう達が観覧席に座り始めた。しかし、左大臣はまだ来ぬようだ」


 陛下の視線を辿り、花祝は外を窺った。

 御簾一枚を隔てた孫廂、几帳で区切られた観覧席には既に有力貴族が居並んでいる。


 中央に広く取られた彗舜帝の観覧席には、陛下のお使いになる繧絢縁うんげんべりの畳と、花祝用の高麗縁こうらいべりの畳が置かれ、その後ろの黄緑縁の畳に小雪が一人座している。

 先程の動揺から己を立て直した様子に、さすがは有能な女房であると、花祝はほっと安堵の息を吐いた。


「左大臣は、公卿達が出揃った後、一の姫を連れて俺の観覧席へと来るはずだ。俺と姫を引き合わせ、姫が后妃の座を約束されているかのように振る舞うのが狙いだからな」


「なんて狡猾なことを考えつくんでしょうか……」


まつりごとの世界では、この程度の駆け引きなど常にある。その中で己の信念を貫き、他者に惑わされぬ心の強さをもち続けることは、正直かなり難しいことだ」


 御簾の外を窺いながらそう仰った陛下の横顔に、花祝の視線が引き寄せられる。


 険しさの中に確固たる意志が滲む顔容は、やはり端麗で気高さに満ちておられる。

 そのお顔を、陛下が不意に花祝へと向けた。


「しかし、先日も伝えたように、俺は花祝と出会ったことで、その心の強さを手に入れることができた。花祝には本当に感謝している」


「陛下……」


 涼やかな目元に、情熱をたたえた藍鉄の瞳。

 まるで心ごとそこに閉じ込められたかのように、花祝の姿が映る。


 表情を和らげた陛下のお顔が花祝に近づく。


 拒むことも躱すことも忘れて固まる花祝の唇に、陛下の唇が触れそうになり────




「女房殿、左大臣殿と一の姫がただ今こちらにいらっしゃるとのことですが……」


 御簾の外から宮内卿の声が聞こえ、花祝ははっと我に返った。



「陛下直々の命を賜り、お二人の応対はこの私がいたします。どうぞこちらへお通しくださいませ」


 背筋を伸ばした小雪が、毅然として宮内卿の伺いに答える。


「せめて御簾の内にいる間に花祝に触れておこうと思うたのに……。左大臣め、なんと間の悪いところで登場するのか」


「な、何言ってるんですか! 今日はセクハラは無しだってお話でしたよね!? 言ってる傍からしようとするのが悪いんですっ」


 小声で言い合った陛下と花祝だが、複数人の衣擦れの音が聞こえてくると、息を潜めて外の様子を窺った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る