十三の四

「龍侍司殿が高階の諌言を遮ってくださったのは、きっと私がこの場に邪気を呼び寄せかねなかったからですよね……。龍侍司殿には、一度ならず二度までも助けていただき面目ない。しかも、私が興味本位で書き起こした呪符が、遣わしのお二人を襲うことになるなんて……。その上、もしもそれが本当に伯父の差し金だとしたら、私はもう貴女方にお詫びのしようがございません」


 消え入りそうなほどにうなだれる彩辻宮。

 花祝はそんな宮に、つとめて優しく声をお掛けする。


「呪符を誰が利用したとしても、私は宮様を責めるつもりはございません。それに、宮様はとても純粋で、感受性豊かな御方。そのような御方は、どうしても邪気を呼びやすいのです」


「そう仰っていただけると、私の心も少し軽くはなるのですが……。ただ、自分の未熟さが邪気を呼びやすいことは自分でもわかっております。心が平静を保てるよう努めているのですが、なかなか上手くいかなくて……」


 先日の対面の折、彗舜帝は彩辻宮の前で后妃を迎えるつもりがないことをきっぱりと告げた。

 そのことに落胆して赤白橡あかしろつるばみの邪気を呼んでしまったことを、宮はいまだ気にしているらしい。


 しかしながら、己の至らなさを悔いるばかりではまた邪気を呼びかねない。

 そう思ったのか、宮はうつむけていた顔をすっと上げ、花祝をじっと見つめた。


「実は本日、龍侍殿にご相談したいことというのは、先日私が邪気を呼んでしまったことと関係があるのです」


 眼鏡の奥の藍鉄の瞳は、宮の真っ直ぐな性格を映して微かに揺らめいている。

 その真剣な眼差しを親身に受け止めようと、花祝は居住まいを正して宮を見つめ返した。


「私の見る限り、あの時の宮様は、陛下のお言葉にひどく落胆されたご様子でしたが……」


「そのとおりです。貴女様が兄上の恋人となったと知り、かなり衝撃を受けましたが……考えようによっては、兄上もようやく后妃をお迎えするおつもりになったのだと期待したのです。ところが、恋人はつくっても、后妃をお迎えにはならぬと、相変わらずのお考え。“あの御方” のお気持ちを思うと、それが何とも歯がゆく口惜しくて────」


「“あの御方” と仰るのは、左大臣の姫君のことですね……?」


 彩辻宮が度々口にする “あの御方” 。

 花祝がその言葉の指す人物を確かめると、宮はこくんと素直に頷いた。


「そうです。龍侍司殿もご存知かと思いますが……左大臣殿はご自分のいちの姫(長女)を入内じゅだいさせ、中宮ちゅうぐう(帝の正室)になさるおつもりです。姫は幼き頃から将来の中宮になる方として育てられ、入内の日を待っておられるのです。私からのご相談というのは、龍侍司殿のお口添えで、兄上に後宮をつくり、一日も早く姫君を入内させるよう勧めていただけないか、ということなのです」


「陛下に、後宮を……?」


 冗談とは思えない彩辻宮の眼差しに胸を射抜かれ、花祝はびくん、と体を強ばらせた。


 昨晩、夜御殿よんのおとどの御簾の内で、花祝に御心を包み隠さずお見せくださった陛下。

 ご自身のお立場に悩まれていた陛下は、どこか吹っ切れたようなご様子で最後にこう仰ったのだ。


“俺は、俺にしかできぬやり方で守ってみせる。花祝も、花祝の愛するこの国も”


 それは、己の信念を貫き、周囲の私利私欲に屈することなく大切なものを守り抜くというお気持ちのあらわれ。


 それを聞いた花祝の口から、陛下に “後宮をつくってほしい” などと今さら言えるわけがない。


 ひりつく喉からなんとか声を絞り出し、花祝は彩辻宮に言葉を返す。


「宮様……。申し訳ございませんが、私から陛下にそのような口添えをいたすことはできません」


「それは何故ですか? 兄上を独り占めなさりたいからですか? しかし、後宮ができれば、龍侍司である貴女も女御にょうご(帝の側室)として、遣わしの任を終えた後もそれなりの地位と暮らしを約束されるはず────」


「違います。私はそんなものを望んではおりません。私が望むのは、陛下が御心安らかに、信念を貫き、陛下にしか成しえない御代みよをお築きいただくこと、ただそれだけです」


 きっぱりとそう告げる花祝の態度に、彩辻宮は焦ったように身を乗り出した。


「しかし、御代を築くということは、次代に繋ぐいしずえを同時に築くということ。主が途絶えれば、せっかく築いたものも朽ち果てついえてしまう。 后妃を迎えて皇子みこをもうけることは、強き礎をつくり、末永くそれを受け継ぐために絶対に必要なことなのです」


「それは陛下ご自身も十分にご理解なさっていることです。しかし、陛下には陛下なりのお考えがあるご様子。一介の臣下に過ぎぬ私がお考えに添わぬことを申し上げることはできません。たとえ申し上げたところで、陛下がお聞き届けくださるとも思えませんし……」


 兄帝と同じ藍鉄の瞳をひどく揺らした彩辻宮が、口惜しげに唇を噛んで俯いた。

 眼鏡の縁をくいっと指で押し上げ、込み上げる感情を押さえつけるように息を吐く。


「……もっともらしい大義名分だけでは、貴女様の御心を動かすことができないことはよくわかりました。ならば包み隠さずに申し上げましょう。私の本心を────」


 そう言って再び顔を上げた彩辻宮。

 その藍鉄の瞳は涙で濡れている。


「宮様のご本心……?」


 宮の涙に戸惑う花祝が、そう繰り返した時であった。


 ただならぬ気配に、はっとして天井を振り返ると、赤白橡あかしろつるばみの邪気と青橡あおつるばみの邪気が薄く揺蕩たゆたうのが目に入った。


(落胆や失望に呼び寄せられる赤白橡と、嫉妬に呼び寄せられる青橡……。宮様の御心には、一体どんな思いが秘められているというの……?)


 花祝の体を流れる龍の通力が、纏う龍袿りゅうけいと呼応して、龍袿を光り輝かせる。

 その清らなる光に吸い寄せられるように、うっすらと色をなした邪気が降りてくる。


 花祝が纏う龍袿の五衣いつつぎぬ

 最も上に重ねられたのは、先日楓が染め上げた真朱まそおの龍袿である。

 本日はこの真朱と同系色の浅蘇芳あさすおう中紅なかべにを組み合わせた、村濃むらごと呼ばれるかさねの色目だが、花祝は羽織っていた唐衣からぎぬだけをはらりと脱ぐと、表着うわぎの袖をめくって真朱の龍袿をあらわにした。


「また邪気が……?」


「はい。けれど、この程度の邪気ならば、真朱の袖だけで祓えます。この龍袿は、楓くんが染め上げた、強き力の宿る清衣きよいですから」


 その言葉のとおり、ゆるゆると引き寄せられた赤白橡の邪気と青橡の邪気は、光り輝く真朱の袖に触れた刹那、しゅっ、と微かな音を立てて消滅した。


 何事もなかったように袖を整え、唐衣を羽織り直す花祝を見つめ、彩辻宮が「はは……」と乾いた笑い声を漏らす。


「せっかく此度こそ龍侍司殿の守護をしかとこの目で見られたというのに、今の私には喜びよりも恥ずかしさや情けなさが先に立ちます。今の邪気でお分かりになったでしょう? 私の内に渦巻く、陰鬱な感情の正体が────」


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