十三の五

 彩辻宮が呼び寄せたのは、赤白橡あかしろつるばみの邪気と、青橡あおつるばみの邪気であった。


 赤白橡の邪気を呼び寄せるのは、失望や落胆といった陰鬱たる感情。

 そして、青橡の邪気を呼び寄せるのは、妬み嫉みといった人の心に巣食う醜い感情。


 これから語らんとする彩辻宮の本心には、一体どれほどの落胆と嫉妬が渦巻いているというのか。


 邪気を滅した花祝が羽織り直した唐衣からぎぬを整え終え、改めて宮に問うた。


「宮様のご本心というのは、如何様なものでございましょう……?」


 花祝の問いかけに、彩辻宮は眼鏡の縁を押し上げつつ口を開く。


「邪気を呼び寄せたのは、姫君の入内じゅだいの目処がつかぬことで私の心の中に生じた焦りと失望です」


 彩辻宮の答えに、花祝は小首を傾げた。


「宮様は、姫君が入内できないことにそれほどまでに失望しておられるのですか? 姫が入内なさらねば、宮様がお困りになるようなことでもあるのでしょうか」


 これまでの口ぶりからして、彩辻宮が従姉の姫のことをたいそう気にかけているのはわかる。

 しかし、いくら姫が入内を心待ちにしているからと言って、父である左大臣ならばともかく、宮までもが邪気を呼び寄せるほどに焦りや失望を感じるのは不自然なように思う。


 理由を問う花祝の言葉に、宮は小さく肩を揺らした。

 しばし沈黙し、それからようやく声を絞り出す。


「はい、その通りです……。姫君が入内なさらねば、私は困るのです」


「それは何故でございますか?」


「姫が入内なさらねば……あの御方に恋焦がれる私の心が、この身をも焼き尽くしてしまうからです……!」


 秘めたる思いが溢れて零れるがごとく、声を掠れさせる宮。

 その言葉と頬をつたう涙に、花祝は雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。


「宮様……それって、つまり────」


「はい……。私は左大臣の姫君のことをお慕いしております。幼少のみぎりより、ずっと、ずっと……」


 はらはらと零れ落つる涙は、溢れてやまぬ宮の思いそのままで、掛ける言葉がすぐには見つからない。


「そのことを、姫君は……」


 辛うじてそれだけ問うと、宮はこくり、と小さく頷いた。


「はい、ご存知です。歌を通して、あの御方には幾度となく気持ちをお伝えしてきましたから……」


 涙に濡れる宮が語るには、先帝の御代、後宮に住んでいた頃は、母である大后(当時は中宮であった)と共に、時折母の実家である左大臣邸に滞在していたという。

 そこには二つ歳上の姫君がおり、歳の離れた二人の従兄よりも姫と遊ぶことの方が多かった。

 しかし、姫君が一足先に成人すると、貴族社会のしきたりで、彩辻宮は姫君と御簾みすを隔ててしか会うことができなくなった。


 親しかった従姉が突然御簾の向こうに行ってしまったことに戸惑いと寂しさを募らせていた彩辻宮であったが、さらに宮は自身の乳母めのとから衝撃的な事実を知らされる。


 その半年前に代替わりして左大臣となった伯父が、当時の春宮とうぐう、すなわち宮の異母兄であるのちの彗舜帝に、姫を輿入こしいれさせるべく、父帝と話を進めている、と────


 そのことを聞いた時、宮は自身がつのらせている姫君への思いが恋慕であることに気づいたのであった。


 落胆する宮を、彼の乳母はこう諭した。

 貴族の姫というのは実家の権勢を維持し強めていくための駒に過ぎませぬ、恋を楽しむのならばこれからは身分の低い女とになさりませ、と。


「私も頭では貴族社会の常識を理解しているつもりでした。ですが、大切なあの御方が、一度も顔を合わせたことのない男と結婚するなんて、しかもその相手が自分の兄だなんて……。とても受け入れられることではありませんでしたが、私にはどうすることもできませんでした」


 幼なじみへの恋など、誰もが患う熱病のごときもの、時が経てば自然と癒えましょう、と乳母に慰められつつ日々泣き暮らしていたけれど、姫君の輿入れはいつになっても実現しない。


 そうこうしているうちに、父から帝位を受け継いで即位した兄帝が、後宮をつくらず后妃も迎えず、下女を相手に一夜の恋ばかりを楽しんでおられるとの噂を耳にした宮は、居ても立ってもいられず、姫にあてて文をしたためた。


うぐひすの声や知るらむ

 知る人ぞ

 我まほしきとうち守りたるを』


あの御方兄帝は、美しい鶯の鳴き声姫君のことを知らないのでしょうか。知っているは、その鶯を手に入れたいと遠くから見つめているというのに”


 文の最後に添えたこの歌に自らの思いを込めて送った宮であったが、数日後、姫から届いた返信は歌の添削内容であったという。


『“鶯の声や知るらむ” では、“鶯は自分を望む人の声を知らないでしょう” という意味にも受け取れてしまいます。ここは “鶯の声知るらむや” とする方が良いかと思います』


 この素っ気ない添削を読んで気落ちした宮であったが、文の最後にはこんな歌が添えられていた。


『鶯の声ぞ知るらむ

 知る人の

 我が身をしみてまぼりたるのを』


“鶯は自分を望む人あなたの声をわかっていることでしょう。鶯のことを大切に思い、見守ってきてくれたことも”


「姫君は、私の気持ちをご存知だったのです……。それを歌にしてお伝えくださったことに、私は一筋の光明を見出しました。私が姫のことを思い、気にかけていることをお伝えし続けていくことで、入内が決まらずに心苦しい日々を過ごしておられる姫をお支えできるかもしれないと思ったのです」


 それから、宮は歌の添削指導を受けるという建前で、事あるごとに姫に文を送り続けた。

 初めは添削指導にたわいない近況報告を添えるだけの姫であったが、文を交わし合ううちに、少しずつ本心を打ち明けてくれるようになったという。


「物心ついた時から将来の中宮、国母になる身なのだと言い聞かされてきた姫にとっては、兄上がご自身の入内を許さぬことが理解できないようでした。ただただ入内の日を待つ暮らしの中で女房達の口さがない噂を耳にしたり、左大臣殿の愚痴を聞くことが増え、生まれ育った家ももはや針のむしろだとお嘆きになっておられました」


 宮の話に耳を傾ける中で、花祝は姫君の立場の辛さに思い至り、胸の塞がるような息苦しさを覚えた。


 彗舜帝がご自身の信念を貫き通し、後宮をつくるまいとする一方で、己の将来が見通せぬばかりか、生まれてきた意味すら見失いそうな人がいる。


 膝の上で握り拳をつくった花祝を前に、宮は切々と話を続けた。


「この春に私が加冠の儀を迎えて独立した後は、歌の指導にかこつけて幾度も姫にお会いいたしました。姫君は、兄上に召されぬのは自分に后としての価値がないからだと嘆き、父にとって政略の駒に過ぎぬ身でありながらその役目すら果たせぬ価値なき人間であると嘆いておられます。ただ、私が姫君をお慕いする気持ち……それだけが、自分がこの世にいることの支えになっていると、姫はそう仰るのです。その言葉を聞くたびに、私は身を切られるような、心を引き裂かれるような、そんな思いに苛まれます」


 そこで一旦言葉を区切ると、宮は涙で腫らした目で花祝をしかと見つめた。


「このまま姫が兄上に召されなければ……私は姫君を思う余りに自分が何をしでかすかわかりません。龍侍司殿、お願いでございます! 兄上にお口添えいただき、どうか後宮をつくり、姫君を后としてお迎えくださるようお取り計らいください!」







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