十の四

降禍術こうかじゅつ”────


 およそ三百年前まで、この桜津国おうつのくにで邪気や物の怪といった “まがもの” を退けるためには、この降禍術が使われていた。


 目の前に現れた “禍もの” に対し、大小様々な物の怪を召喚して戦わせる、いわば毒を以て毒を制す妖術。


 それは当然諸刃の剣で、元来人を襲うさがを持つ物の怪は扱いが難しく、召喚した妖術者や周囲の人間に危害を加えることもしばしばであった。


 さらに人のさがとして、この降禍術を悪用せんとする輩も現れた。己の欲を満たすため、召喚した物の怪に人を襲わせ、犯罪や陰謀に利用したのだ。


 三百年前、隣国から伝わった妖術と古来よりこの国に存在する妖術を融合させた陰陽術が大成し、それにより、帝の守護である龍の遣わし以外の人間でも、物の怪に頼ることなく “禍もの” を退けることができるようになった。


 それを受け、当時の帝は陰陽術を国の認める唯一の妖術と定める一方で、降禍術を禁呪に指定した。

 使い手は術の封印を強いられ、術式などの書かれた資料は焚書となって燃やされた。


 結果、その後百年も経たぬうちに降禍術は廃れていく。

 後世に発見された僅かに遺った文献も、破れや虫食い、写し違いなどがあって術式の再現は不可能。


 もはやその術がこの世に蘇ることはなく、陰陽術が人々の暮らしに定着した今はその必要もない────




 襲芳殿に保管されている妖術の解説書には、降禍術に関してこのように記述されていた。


「うーん……。降禍術が今や廃れているのは事実だけれど、実際には焚書を免れた文献も僅かながら残っているということよね。彩辻宮あやつじのみや様の文学ふみのはかせが古文書の復元を専門としているのならば、研究を積み重ねて降禍術を蘇らせる可能性が全くないとは言えないのかも……」


 広げた書物を巻き直しながら、花祝は考える。


 もしも、彩辻宮が高階たかしな弘相ひろみという文学の協力を得て降禍術を蘇らせたとして。


 その目的は、やはり彗舜帝を廃することなのであろうか。


 しかし、先日の対面では、彩辻宮は自分は後継の器ではないと言い、兄帝が後宮をもつつもりも世継ぎをつくるつもりもないと聞き、邪気を呼ぶほどに落胆していた。


 もしそれが本心ならば、彩辻宮が兄帝に危害を加えるつもりで術を復活させようとしているとは考えにくい。


 少年らしい純粋な興味から、失われた妖術の復活を試みているのか。

 あるいはやはり何らかの目的をもって術の完成を目指しているのか。


 はたまた、誰かの策略に踊らされているのか────




 そんなことを考えながら巻物の紐を結んで書棚に戻した花祝の耳に、慌てたような衣擦きぬずれの音が聞こえ。


 やがて花祝のいる塗籠ぬりごめ遣戸やりどの外で、小雪の声がした。


「花祝さま。ただいま内侍司ないしのつかさより、少々気になる情報を耳に入れて参りました。中に入らせていただいてよろしいでしょうか」


「ええ、どうぞ」


 花祝が答えると、遣戸がすす、と開き、小雪が入ってきた。

 心なしかその表情はこわばっている。


「今ちょうど調べ物を終えたところなの。どうぞ座って」


 塗籠は襲芳殿の奥まった場所にある、四方を壁と遣戸に囲まれた密室である。

 龍侍司に代々受け継がれている大切な書物を保管するほか、普段は花祝の寝室として使われており、塗籠の中央には数枚の畳が敷き詰められている。

 花祝が促すと、小雪は恐縮しつつ畳の上に座った。


「それで、気になる情報っていうのは?」


 改めて問いかけると、小雪は一歩膝を進め、扇で口元を隠すようにして花祝の耳に口を寄せた。


「実は今、所用がございまして清龍殿の内侍司ないしのつかさへ参ったのでございます。ついでに手隙の女官達とたわいもないおしゃべりしていたら、彩辻宮様のお話が出まして……」


 彩辻宮が参内され、彗舜帝と対面したのは昨日のこと。

 花祝が帝の守護に侍る間、小雪は女房達の控えの間で待機していたのだが、同室となった彩辻宮側の女房とはあまり言葉を交わせなかったらしい。

 宮に付き従ってきたのが後宮時代から仕えている古参の女房達であったため、内侍司に残る女房達との再会に喜び、思い出話に興じていたそうなのだ。

 年若い小雪はその会話に加わるのも気が引けて、花祝が戻るまでひとり絶賛連載中の恋物語の構想を練っていたそうだが、今日になって何らかの情報を得たらしい。


「彩辻宮様のどんな話が聞けたの?」


「はい。宮様の近況なのですが、この春に成人なさり、独立してお邸に住まわれてからというもの、頻繁に左大臣邸に出入りしてらっしゃるようでして……」


「左大臣邸に? どんなご用向きで出入りなさっているのかしら」


「それが、宮様はお従姉いとこ君であらせられる左大臣家の姫を、和歌の師となさっているそうなのです。それで、歌を教えていただくという名目で左大臣邸に出向かれるようなのですが……。歌を教えていただくだけならば、使いの者を介して添削していただくだけでも事足りるはず。何故こうも足繁く通われるのか、ということを宮様付きの女房が話していたそうなのです」


「宮様が独立なさってから、宮様と左大臣家との繋がりが一層濃くなった、ということね?」


「ええ。宮様が左大臣殿や姫君とどのようなお話をされているのかということまではわからなかったのですが……」


「ありがとう、小雪。今の話を聞けただけでも十分よ。あとは偵察に行ってるナギ兄からの報告を待ってみるわ」


 薄暗い塗籠の中、手燭の灯りに浮かぶ互いの顔を見つめ、花祝と小雪はこくん、と頷き合う。


「それにいたしましても、龍染司様も凪人さんも訪ねてこられない襲芳殿はどことなく寂しゅうございますわね。女どもの装束は色鮮やかで華やかなれど、垂れ込める雲のせいか、今ひとつ気分も晴れませんわ」


 小雪が小さくため息を吐いた時だった。


「龍侍司様、小雪様。こちらにおそろいでしょうか?」


 遣戸の外から遠慮がちに声をかける部屋付き女房の声。


「ええ、二人ともいるわよ」


 花祝がそれに応えると、遣戸越しのままで女房が用件を伝えてきた。


「たった今、彩辻宮様からの使いの者が襲芳殿にいらっしゃいました。龍侍司様にお取次願いたいとのことで、文を預かったのですが……」


「ええっ? 宮様からの使いが、ここに?」


 思ってもみなかった展開に、花祝と小雪は目を丸くして顔を見合わせた。



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