九の六

「きゃあっ!? な、何するんですかっ!?」


 龍袿の合わせに入り込もうとする陛下の手を慌てて押さえつけ、花祝は驚きの声を上げた。


「そなたの胸の内に隠しておることを、この手で探ろうとしているのだが」


「“さぐる” と “まさぐる” を履き違えてません!? そもそも、私は陛下に隠そうとしているわけでは────」


 セクハラの通常運転を何とか回避しようと抵抗する花祝の耳に、取次の女官の声が聞こえてきた。


「陛下。彩辻宮様が先ほど賢礼門をお通りになったとの報せにございます。清龍殿へのご到着も間もなくかと」


「うむ」


 陛下のお返事に、助かったとばかりに息を吐く花祝。


(何も初めから密着してる必要はないわよね。そもそも、“禍もの” が出なければ、ドキドキの力を試すことはできないんだし)


「やはりこの態勢では宮様の御前で陛下が何をなさるかわかりませんからね。後ろに控えさせていただきますっ」


 きっぱりとそう申し上げて陛下のお膝の内から逃れると、陛下は「えぇー……」とわらわのようにお口を尖らせたのだった。


 ❁.*・゚


「宮様のおいでにございます」

「通せ」


 女官と陛下の短いやり取りに、斜め後ろに下がって控える花祝の背筋が伸びる。


 ややあって、御帳台の正面のとばりが巻き上げられた先、代わりに垂らされた御簾みすの向こうに、一人の少年────そう、青年と呼ぶにはまだ幼さが残る人物が入ってきた。


「兄上……いえ陛下、ご無沙汰しておりますが、つつがなくお過ごしでしょうか」


 臣下であれば、帝から声を掛けられるまで平伏したまま顔を上げられないのであるが、そこは弟宮。皇族専用の繧繝縁うんげんべりの畳に座ると、堂々とお顔を上げて帝にご挨拶なさる。


 御簾越しなのを幸いに、花祝は彗舜帝の異母弟であり、左大臣の甥である彩辻宮をまじまじと見つめた。


 冠を着け、紅がかった二藍ふたあいの夏直衣をお召しになった彩辻宮。

 この春に成人されたばかりということで、花祝よりも二つほど年下であろう。実弟の空良そらや乳兄弟の湊人みなとと同い年のはず。

 愛らしさと精悍さの織り混ざったお顔立ちであるが、花祝の目を引いたのはその整ったお顔に装着された、見慣れぬ物であった。


「宮もつつがなく暮らしておるようで何よりだ。して、その後 “眼鏡” の具合は如何か?」


 脇息にもたれ掛かり、彗舜帝が鷹揚にお声をかけると、彩辻宮はぱあっと笑みを綻ばせ、ご自分のお顔に掛かる黒縁のをくいっと指先で押し上げる。


「はいっ! この眼鏡を掛けてからというもの、ぼやけていた視界が嘘のように鮮やかになりました。おかげで研究もますます捗ります!」


「そうか。それは何より。しかし、あまり机にしがみついておると、さらに目が悪くなるぞ。それを献上した華瑠真ゲルマの使者が申しておったが、視力の低下が進むと眼鏡が合わなくなってくるらしい。遠く離れた華瑠真の物品はなかなか手に入らぬのだから、大切にしなさい」


「はい! これほど貴重な品を賜り、誠にありがとうございます!」


 お二人の会話から、彩辻宮の顔に掛かる物が “眼鏡” なるもので、それが視力を補正するものであると花祝は理解した。

 この桜津国が世界の東端ならば、華瑠真は西端の大国である。

 遠い異国から献上された珍品を下賜されることから、彗舜帝は弟宮のことを日頃より気に掛けていらっしゃることがうかがえる。

 対する彩辻宮の方も、陛下の前ではあどけない笑顔をお見せになっており、兄帝をお慕いなさっていることがよくわかる。


(思ったよりご兄弟仲は悪くなさそう……)


 そんな印象を抱きながら、花祝が口元を緩めた、そんな折────


「して、本日そなたが参ったのは如何なる用向きか? 姫を后に迎えぬ兄を説得するよう、左大臣から頼まれでもしたか?」


 歯に衣着せぬ物言いでそうお尋ねになった陛下のお声に、彩辻宮はびくりと肩を跳ね上げた。


「いえっ! そうではございません! 弟が兄を慕って会いに来るのに、理由なぞ必要なのでしょうか……?」


 お父上譲りなのであろうか、兄帝と同じ藍鉄の色をした瞳を、彩辻宮が縋るように揺らめかせる。

 その顔容かんばせをご覧になった陛下は、困ったように嘆息なされた。


「慕ってくれるのは嬉しいが、そなたももう成人し、皇族として独立したのだ。生まれ育った場所とは言え、用もないのにふらりとこちらへ出向くのは控えるべきであるぞ。そなたの気まぐれで外出するのに、護衛や侍女が一体どれだけの労力をかけているのか推し量ってみなさい」


「は、はい……」


 至極もっともな陛下のお言葉に、しゅん、と項垂れる彩辻宮。

 確かに、皇族ともなると御邸の外にお出かけになるのに多くの者が付き従う。さらには皇子のいらっしゃらない彗舜帝に万一のことがあった場合、次の帝となるのはこの彩辻宮をおいて他にいない。いわばこの御方は暫定的なれど、実質的には春宮とうぐうの位置におわす方である。

 そんな御方に付き従う者達がどれだけ大変なのかというところをお気に掛けるところが、日頃から民草を思いやる彗舜帝らしいと感心しつつ、花祝は弟達と同い年の宮様に同情を禁じ得なかった。


「陛下……」


 つん、と御引直衣おひきのうしの袖を引くと、「うん?」と帝が振り向きなさる。


「陛下のお言葉はもっともですけれど、宮様は独立されてまだ間もないのでございましょう? 急に心細くなってご家族のお顔を見たくなる気持ちは、故郷を離れて暮らす私にもよくわかります」


「ふむ……。家族とは、そういうものか」


 花祝と陛下が言葉を交わすと、御簾の向こうにおわす彩辻宮が、くい、と眼鏡の位置を整えてこちらをじっとご覧になった。


「陛下にそれほど率直にもの申すとは……後ろに侍る者は、内侍司ないしのつかさの女官ではないのですか?」


「ああ、彼女は龍侍司だ」


「りゅ、龍侍司ですって!?」


 花祝の職務を陛下が明かした途端、彩辻宮が背筋を伸ばして大きな声を上げなさった。


「な、なんと、龍の通力を授けられし遣わしが、こんな近くにいるなんて……!」


 感極まったように呟かれる彩辻宮。

 眼鏡の奥から星が出てきそうなほどに輝いている藍鉄の瞳が御簾越しにもうかがえ、あからさまにそれを向けられた花祝は当惑してしまった。



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