九の五

 桜津国おうつのくにの帝が代々お住まいになる、清龍殿せいりゅうでん

 広い殿舎の中には、陛下が主に日常をお過ごしになる場所が三ヶ所ある。


 一つは、凶日以外の午前中に政務が行われる殿上てんじょうの間。

 ここには昇殿を許された高位の貴族、殿上人てんじょうびとが参上し、帝と共に国政を取り仕切る空間となっている。


 政務以外の日中、帝は昼御座ひのおましでお過ごしになる。

 清龍殿の中心となる広い空間で、さらにその中心には四方をとばりで囲われた御帳台みちょうだいが置かれている。

 内部には皇族のみが使用できる繧繝縁うんげんべりの畳が置かれ、真綿の詰まったやわらかなしとねの上でお座りになったり横になられたりしながら、帝は御帳台の中でお寛ぎなさる。


 夜、お休みになられる時には昼御座の裏手にある、壁で囲まれた夜御殿よんのおとどに入られる。

 豪華な装飾の施された枢戸くるるどの内には、帝の秘書的部署である内侍司ないしのつかさの中でも高位の女官か、守護のために宿直とのいする龍侍司りゅうじのつかさのみが入ることを許されている。

 后妃がいれば夜ごと美姫達が入れ替わり召されるのであろうが、今上帝には后妃がいらっしゃらず、最近は女官とのお戯れもとんと止んだため、夜御殿の中で陛下と一晩を過ごすのは宿直に侍る花祝のみとなっている。


 そして今日。

 異母弟である彩辻宮あやつじのみやと今上帝である彗舜帝が対面なされるのは、昼御座ひのおましとなる。

 陛下は既に御帳台みちょうだいの中におられるということで、女官の先導を受けた花祝は緊張の面持ちで昼御座へと入った。


 梅雨の晴れ間で、清龍殿を囲むしとみ襖障子ふすましょうじを開け放っているため、灯りがなくとも十分に明るい。


「龍侍司さまが参りあそばしました」

「内へ」


 先導の女官に彗舜帝が涼やかなお声で短く指示を出される。

 正面の帳を開けられた花祝は、「失礼いたします」と深々と頭を下げ、膝立ちのまま御帳台の中へと進んだ。

 荷葉かようの爽やかな香がふわりと漂う。


「龍侍司にございます。本日は彩辻宮様とのご対面に、守護として同席させていただきたく参上いたしました」

「よう来た。堅苦しい挨拶は要らぬ。花祝から会いたいと言うてくれるなら、俺はいつでも大歓迎だ」


 涼やかなお声が弾むような軽やかさで花祝の頭上に降り掛かる。

 先日の宿直では、“ためし着” の夜に花祝が楓と二人きりで過ごしたことでかなりご機嫌を損ねていたが、今日は打って変わってご機嫌麗しいご様子。


「こちらへ」と呼ばれて初めて花祝が顔を上げると、濃二藍こきふたあい御引直衣おひきのうしの裾を艶やかに広げてお座りになる彗舜帝が、藍鉄の瞳を細めて花祝を見つめておられた。


 その端麗なお姿を視界に入れただけで心臓が跳ね上がるのに、陛下は脇息にもたれかかったまま細く長い指をこちらへ向けられ手招きなさる。


 真昼間から匂い立つ色香に、花祝の鼓動は加速の一途をたどる。

 だが、今日の花祝は後退りなどしない。

 高鳴る鼓動を確かめるように胸に手をあてながら、「失礼いたします」と陛下の御前に膝を進めた。


(大丈夫……。この胸の高鳴りは、龍の通力の高まりに通じているはず!)


 己の内に遣わしとしての力が漲っていると花祝が信じるのには、理由がある。


 先日、清らなる谷へ出立する前日に花祝の元を訪れた楓からスキンシップを請われた時のこと。

 楓に抱きしめられた時は確かな安らぎを感じられたのに対し、彗舜帝に同じことをされた時には鼓動が高まる一方で、決して嫌ではないのにその腕から逃れたいとも思ってしまう。

 その違いに気づいた花祝は、帝の場合、貞操の危機に瀕して遣わしの本能がはたらくのではないか、つまり鼓動が高まり逃れたいと感じる時ほど、遣わしとしての力もまた高まっているのではないかと考えたのだ。


 艶やかな狼の手招きに、小兎は逃れたくも引き寄せられる。

 でも、これでいい。


 手の届く場所まで近づくと、陛下はいつものように花祝の手を引かれ、ご自分の胸に囲われた。

 ふわ、と荷葉の香が舞い立つ。


「弟宮の来訪には少々気が滅入るのだ。そなたが傍にいてくれるのはとてもありがたい」


 陛下の発せられる涼やかなお声が、胸に押し当てられた耳朶を震わせる。


(やっぱり……。陛下は彩辻宮様の参内を喜ばしく思ってらっしゃらないのね。対面なされた時にその思いが強くなれば、再び青橡あおつるばみの邪気を呼び寄せてしまう。やはり私が陛下をお守りしなくては────)


「陛下。宮様とのご対面中、この御帳台の内に控えさせていただいてもよろしいでしょうか。邪気が現れた時に、すぐさま陛下をお守りできるように」


「無論。何なら彩辻宮の前でも、この “さいきょうのしゅご” の態勢でいてよいのだが」


 陛下はそう囁かれると、花祝の体をさらに引き寄せ、お膝の内に囲われるといういつもの守護の態勢(あくまでも花祝と彗舜帝の限定仕様)に入られた。


 常であれば、『こんな態勢を弟宮様の御前で晒そうだなんて、一体どんなセクハラですかっ!』と抗うところであるが、今日の花祝は少し違う。


「龍袿の清気に触れることで陛下の御身にも清浄な気が宿るならば、それでもよいかもしれませんね」


 早鐘のごとき鼓動に呼応し、龍の通力も高まっているはずの今。

 もっとも効果的な方法で守護の役目を果たせるのならば、それに越したことはない。


 そう考えた花祝が大真面目に答えると、一瞬の間が空いた後、彗舜帝が楽しげに笑い声を漏らされた。


「“えろ” だの “せくはら” だのと詰られると思ったが、今日の花祝は随分と素直であるな。飢えた狼を憐れみ、我が身を差し出すつもりにでもなったのか?」


「は? 陛下ったら、何を仰るんですか? 飢えた鳳凰狼ならば、こないだ楓くんと退治したばかりですってば」


「鳳凰狼……だと?」


 花祝の指に口づけようと緩い弧を描いていた陛下の唇が、瞬時に強ばった。


「あ……っ」


 もののたとえに疎い花祝は、射るがごとくに鋭い藍鉄の瞳を向けられ、己の失言にようやく気づいた。


(そうだった! “ためし着” の夜、薬叉殿に物の怪が出たことは陛下のお耳に入れていなかったんだわ!)


「花祝……そなた、先日は俺に隠し立てするようなことなどないと言い切っておったが、どうやら秘めていることがありそうだな」


「そっ、それは陛下が楓くんとのことをあんな形でお尋ねになるから、ご報告の時機を逸しただけです! 別に隠そうとしていたわけじゃ……」


 よもやこの場であの呪符の件を説明することになろうとは。


 何から申し上げればよいやら、頭の中を引っ掻き回してあわあわと言葉を探す花祝をご覧になり、陛下が口の端を悪戯っぽく上げなさる。


「胸に秘めたることがあるならば、俺がこの手で暴いてやろうか?」


 楽しげにそう仰ると、陛下は花祝の手を握っておられた手を、すす、と龍袿の合わせに差し込まれた。


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