九の四

 明日の午後、彩辻宮あやつじのみや参内さんだいなされる────


 内裏の女官の情報網で小雪がその噂を仕入れてきたのは、楓が清らなる谷へ赴いた翌日のことであった。


 先帝の中宮(正室)であった大后おおきさきの一人息子、彩辻宮。

 大后は左大臣豊原元頼とよはらもとよりの妹であるため、彩辻宮は左大臣の甥にあたる。

 そんな左大臣寄りの異母弟が、彗舜帝に挨拶するため参内なさるというのだ。

 それを聞いた花祝の心はにわかにざわざわと騒ぎ出した。


「小雪。急ぎ清龍殿の内侍司ないしのつかさに使いを出して、明日の彩辻宮と陛下の面会時に私が守護につくことができるか聞いてみてくれるかしら?」


「かしこまりました。私が直接出向いた方が話が早いでしょうから、すぐに支度をいたします。けれど、理由はどのように説明いたしましょう?」


「龍侍司が、お二人の面会時に、陛下に邪気が憑く恐れがあると申している、と伝えてちょうだい」


「まあ、それは大変! では、すぐに行って参りますわね」


 心得た、とばかりに大きく頷くと、小雪は書き物の手を止めて硯箱を手際よく片付け、衣擦れの音をさせて襲芳殿を出て行った。


 花祝はそれを見送ると、明日の龍袿を選ぶべく、几帳の後ろに置かれた葛籠つづらに歩み寄った。


 花祝の心中のざわつきは高まる一方だ。

 その理由は、以前彗舜帝が左大臣邸に招かれた際に起こった出来事による。


 ふた月ほど前になるが、彗舜帝が月見の宴に招かれた夜、青橡あおつるばみの邪気に全身を蝕まれてお戻りになったことがあった。

 清気漲る花祝の身体と龍の力の宿る龍袿で陛下の御身を覆い、邪気を浄滅させて事なきを得たが、あの時は侍医や内侍司の女官達も騒然として、一大事となったのだ。


 青橡の邪気は、ともすれば人の心に容易く沸き起こる恨みつらみや怒り、嫉妬など、強い負の感情が呼び寄せる邪気である。

 この邪気は人の心身を蝕み、酷いときには重い病に伏したり、我を失い自他を傷つける行為を引き起こす。

 国を束ねる帝がそのような邪気に慿かれては、国政が乱れることは日を見るより明らかである。


 あの月見の宴には、彩辻宮も同席していたと聞く。

 後宮を持たず、皇子もおられぬ彗舜帝に万一のことがあった場合、皇位を継ぐのは異母弟の彩辻宮となっている。

 帝の外戚の立場を切望する左大臣が、娘の入内じゅだいを受け入れぬ彗舜帝に痺れを切らし、甥の彩辻宮に皇位を継承させようと目論む可能性が高まっている中、お二人が顔を合わせることでどのような感情が渦を巻くのか、まつりごとの外にいる花祝には想像もつかない。


 しかし、彗舜帝が彩辻宮の参内を手放しで歓迎なされぬのは確かであろう。


(何事も起きなければそれでいいのだけれど……)


 艶やかで端麗な陛下のお顔に時折舞い降りる寂寥の花びらを思い出しつつ。

 花祝は陛下の御心が温まるような暖色系の龍袿を重ねることにした。


 淡黄たんこうから赤橙あかだいだいまで、色調を滑らかに移行させた五衣いつつぎぬかさねの色目を選び終える。

 続いて、気持ちを穏やかにする加密列かみつれこうで焚きしめるよう、部屋付きの女房に指示を出す。


 女房が香の支度を整えている最中に小雪が戻り、内侍司を通して明日の守護のお許しを陛下より賜ったことを花祝に報告した。


「宮様は一昨年、高月院の退位に伴ってご両親と共に内裏の後宮から院のご邸宅へお移りあそばされました。先日、“加冠の儀” を経てご成人になられ、独立なさってからは初めてのご参内。あの可愛らしい宮様がさぞご立派になったであろうと、内侍司の女官達は浮き足立っておりましたわ」


 彗舜帝の御気色みけしきが悪しくなるのを懸念する花祝をおもんばかってか、常ならば先頭を切って浮き足立ちそうな小雪が苦笑を漏らす。


「そう……。先日の配置替えで左大臣派の女官がお側仕えを外されたとは言っても、内侍司の中には大后様の時代からお仕えなさってる方も多いでしょうからね。宮様の参内を歓迎する空気の中で、陛下がどれほど居心地の悪い思いをなされるかが心配だわ」


「左様でございますわね。ですが、明日は花祝さまが付き添われるのですもの。陛下もきっと心強く感じていらっしゃると思いますわ」


「“お気に入り” って言う部分をやけに強調するわね……。私は龍侍司として、邪気の近づきそうな状況から陛下をお守りするだけよ。つい先日、守護の在り方について自分の中で一つの仮説を見出したばかりなの。それを確かめるためにも、明日の守護は気合いを入れて頑張るわ!」


 邪気や物の怪から帝をお守りするという使命のため、常に緊張の面持ちで清龍殿へ赴く花祝であるが、今回はいつにも増して張り切っているように見える。

 心を貫く一本の芯をさらに強くしたような主人の横顔に、小雪はより一層の敬愛の念を抱いて花祝ににじり寄った。


「花祝さまのその意気込み、小雪も頼もしゅうございます! されど、くれぐれも悪目立ちはお避けくださいませね。ただでさえ花祝さまは左大臣派の女官からは快く思われていないのです。何者かから呪符で狙われた上に内侍司まで敵に回しては、今後の龍侍司としてのお務めにも障りが出かねませんし」


「忠告ありがとう。そうね、悪目立ちしないよう気をつけるわ」


「ああ、私がご対面の場となる昼御座ひのおましまで付き添えれば良いのですけれど、一介の女房ではそれも叶わぬ身。控えの間での待機中はきっと花祝さまと陛下のことが気になって、おしゃべりどころではありませんわ!」


 小雪の心配性が顔を覗かせ始めたことに、花祝はやれやれと苦笑する。

 しかし、それも主人である自分を大切に思ってくれているからこそと、花祝は扇を握りしめる小雪の手を両手でそっと包んだ。


「そんなに心配しなくても大丈夫よ。明日は宮様のお付の侍女達もいて賑やかだろうし、小雪はのんびりおしゃべりして楽しんで待っていてちょうだい」


 そんな花祝の言葉に、小雪は滅相もないとばかりにぶんぶんと首を振る。


「何を仰います! 清らなる谷へ向かわれた龍染司様がご不在の中、花祝さまの恋が動くとしたら陛下のお傍に侍る時ではありませんか。その様子を間近で拝見できないのであれば、妄想で補いつつ物語の続きを書きませぬと。侍女達とおしゃべりしている暇など毛の先ほどもございません!」


「ちょっと待って!? あなたの書いてる恋物語は、実際の私の行動とは関係がないんじゃなかった!?」


「もちろん、花祝さまはあくまで主人公の雛形モデルであって、物語は架空のものですわ。とは言え、物語には現実感リアリティがある方が、読者が情景を想像したり、感情移入したりしやすいでしょう? 内裏で実際に起こった出来事を盛り込む方が、読者である女房達にも受けが良いのです」


 悪びれもせずそう言い切る小雪を前に、常日頃自分が彗舜帝とセクハラまがいのやり取りをしているなど口が裂けても言えないと、背筋の凍る思いのする花祝であった。

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