八の四

 龍袿りゅうけい五衣いつつぎぬとした十二単じゅうにひとえの正装で清龍殿に赴く花祝の足取りは重い。


 彗舜帝から、本心とも戯れともつかぬ恋心を告げられたあの日以来、陛下の守護に侍るのはこれが初めてとなる。


 しかも、今回の御物忌おんものいみは深夜ということもあり、陛下たっての希望でご寝所である夜御殿よんのおとどに侍る宿直とのいの予定だ。


 御殿油おんとなぶらの揺らめく中、白絹の単衣ひとえの上に大袿おおうちきを肩掛けし、荷葉かようの香を漂わせて脇息にもたれかかる陛下の御姿は、色恋に疎い花祝でも目眩を覚えるほど艶やかで、そんな御方の傍で一晩を過ごすというのは、たとえ御簾みす越しであっても緊張することこの上ない。


 しかも。


『俺が、花祝に、恋しているのだ』


 そんな告白をされた後で、どのような顔をして御前に出ればいいのか、花祝には皆目見当がつかない。


“今は龍侍司りゅうじのつかさとしての務めを全うし、陛下を守護申し上げることだけに心血を注いでおりますゆえ、お返事いたしかねます”


 そんな答えを頭で組み立ててはみたものの、陛下の告白を無下にするなどあまりに畏れ多くて口に出せそうもない。


 それに、そもそもあの告白に対する答えを陛下がご所望なのかもわからない。

 何せ、色好みの御方であるから、“今日は良い天気であるな” と独りごちるくらいの気まぐれで呟かれたのかもしれないのだ。

 こちらが大真面目な答えを用意して、“何のことだ?“ などと首を傾げられようものなら、すぐに清龍殿の庭に穴を掘って飛び込みたいくらい恥ずかしくなるはずだ。


(あの告白のことだけじゃないわ。”ためし着” の夜に貼られた呪符のせいで、鳳凰狼ほうおうろう老獺ろうだつに襲われたなんてことが陛下のお耳に入ったら……)


『花祝に辛い思いは決してさせぬ』


 凪人の前で凛然とそうのたまった陛下のこと。


 呪符を貼った犯人を徹底的に探し出し、遣わしの二人を害さんとした黒幕を追及なさるであろう。


 そしてもし──その可能性はかなり高いと見えるが──黒幕が左大臣派の誰かであったならば、陛下と左大臣の対立はいよいよ表面化し、国政が乱れ、桜津国おうつのくに全体に混乱が波及しかねない。


 そうなってしまった時に、花祝が何よりも恐れること。

 それは、陛下の御身に大きな災いが起こることである。

 遣わしとして、何ともしても陛下をお守り申し上げると固く心に誓っている花祝としては、それだけは何としても避けねばならない。


(変に考えすぎると、また顔に出てしまいそう。とにかく平常心で守護に専念することを心がけなくっちゃ!)


 清龍殿手前の控えの間にて待機する小雪と別れ、内侍司ないしのつかさの女官の先導で夜御殿に向かう。


「龍侍司さまのおいでにございます」

「入れ」


 装飾の施された枢戸くるるどの向こうより涼やかな声が聞こえ、女官が恭しく戸を開けた。

 ぺこりと一礼し、早まる鼓動を宥めつつ中へ入る。


 部屋の隅に用意された畳に座すと、御簾越しに浮かぶ影すらも艶やかな陛下に向かって、花祝は深く頭を下げた。


「龍侍司にございます。御物忌おんものいみの守護に参上いたしました」


 御簾越しに涼やかなお声がかかるのを平服したまま待つことしばし。


 常ならば「入れ」と御簾の内にお招きになるところだが、今宵に限っては何のお声もかからない。


 不思議に思い、極力頭を下げたままで御簾の向こうへ視線を移す。

 そこにはいつものように脇息にもたれかかる陛下のお姿が映し出されているし、こちらをじっと見つめる御気配も感じられる。


「あの…………陛下……?」


 恐る恐るお呼び申し上げると。


 御身を起こされた陛下がすっくと立ち上がり、乱暴に御簾を押し上げなさった。


 藍鉄に澄む瞳は鷹のように鋭く花祝を射抜き、形の良い眉はきつく寄せられ、艶やかなはずの唇は歯噛みせんばかりに引き結ばれておられる。


 端麗な顔容かんばせを歪ませた陛下は、今にも青橡あおつるばみの邪気を呼び寄せてしまいそうなほど悪しき御気色みけしきをしていらっしゃる。


 驚いて顔を上げた花祝は、慌てて唐衣からぎぬを脱ぎ捨て、龍袿りゅうけいの清らなる気で陛下をお守りせんと足元に縋りついた。


「陛下!? いかがなされました!? 今宵は陛下にとって凶となりますゆえ、そのように荒れた御気色では邪気に憑かれてしまいます!」


「邪気が憑くなら憑けばよい! 俺を守護する龍侍司が邪気を呼び寄せる原因とならば面白いことこの上ない」


「何を仰るのです!? なぜ私が邪気を呼ぶ原因となるんですか!?」


 お言葉の意図がわからず、羽織られた大袿の裾に縋りついたまま見上げる花祝。

 陛下はその細い手首を掴むと花祝を半ば強引に立たせ、御簾の内にある繧繝縁うんげんべりの畳(皇族のみ使用が許される畳)の上に花祝を引き入れた。


 怖い。

 力を込めて握りしめられた手首が痛い。

 お立ちになられたまま鋭い熱を孕んだ瞳でこちらを見つめる陛下に、いたたまれなくなった花祝は視線を逸らして俯いた。


「陛下……畏れ多きことながら、私には陛下のお気に障ることをいたした記憶がございません。何故斯様かように御気色悪しくあらせられるのでございましょう?」


 逆撫でせぬよう努めて丁寧に問うものの、返ってきたのは大きなため息。

 降ってきた吐息が槍のごとく感じられて、花祝の肩はますます強ばる。


 ややあって、もう一度大きく嘆息なされた陛下が、ようやく花祝の問いにお答えになった。


「花祝……。そなた、一昨日の晩に “ためし着” を行ったそうだな?」


「は、はい。楓……いえ龍染司様が清らなる谷にて集めてきた残零ざんれいで新しき龍袿りゅうけいを染めましたため、清衣きよいとして纏うことができるかどうかを薬叉殿にて試してまいりました」


 新しき龍袿が染め上がるたび、龍侍司と龍染司の二人が “ためし着” を行うならわしは、帝もご存知のはず。


 そのようなことをなぜ今確認なさるのだろう。


 問われたことのみをお答えすると、陛下のお声がさらに続く。


「“ためし着” のこと、なぜすぐ報告に来なかった? 大切なそなたの身を俺がどれだけ案じていたかわからぬと申すのか」


「陛下…………」


(まさか……私たちが物の怪に襲われたことを、陛下はすでにご存知なの?)


 花祝の体からいっそう血の気が引いていく。


 陛下のお気を鎮めるためには、一体どこからどう説明すれば────


 考えあぐねた花祝が口を噤んでいると、手首に込められた力がにわかに緩み、陛下はその長く美しい指を花祝の指の間に滑り込ませた。

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