五の五
「へ、陛下っ!? 本日は
「守護のときに花祝の龍袿を脱がせるわけにはいかぬであろう? 今宵ならば、花の綻ぶさまをじっくりと楽しむことができる」
帝の腕から逃れようと、花祝は陛下の胸板を必死で押した。
しかし、細身とは言え陛下も殿方。花祝の抵抗に動じることなく、腕の中に囲う彼女の黒髪に頬を寄せ、そのすべらかな髪筋を楽しみながらしのび笑いを漏らされる。
「それに、そなたは返し歌でこう伝えてきたではないか。“自分という花を
「はあっ!? そんな意図を含んだつもりは微塵もありませんっ!」
桜津国では、貴族の身につけるべき教養の一つに和歌があり、季節の挨拶や恋文には和歌を書き添えることが嗜みとなっている。
しかし、
和歌があまり得意ではない花祝は、図らずも思わせぶりな “あはれなりけり” という言葉を使ってしまったことに心底後悔した。
それでも、ここで諦めては本当に取り返しのつかぬことになりそうで、花祝はぐるぐると頭を巡らせながら必死で策を考える。
「そうだっ! 陛下、明日は国全体の凶日です! こちらでの守護の準備がありますから、一度襲芳殿に戻りたく────」
「戻るのは明朝でよかろう? これまで国の凶日に厄介な “禍もの” が
そう仰った帝が、抱きしめた腕で花祝の首を固定なさり、その端麗な
陛下の頬を叩こうと反射的に腕が動くも、抱きしめられて引き抜けない。
絶体絶命────!!
と思った花祝だが、その刹那、先日の菖蒲の助言が頭に浮かんだ。
「陛下、おやめくださいっ! 私にはすでに心に決めたお方がいらっしゃるのです!!」
吐息がかかるほどの距離で大声を上げた花祝に、唇を寄せつつあった帝の動きがぴたりと止まる。
(こ、効果あった…………!?)
と、花祝の緊迫感が緩んだところで。
「…………っ!!」
帝の唇が楽しげな弧を描き、そのまま花祝のそれに押し当てられたのだ。
(なっ、なんで……っ!?)
息もできず、混乱のまま帝を押しのけようとするも、もはや拘束に近い力で抱きすくめられてどうにもならない。
いやいやと顔を振ろうとしても、首元に回された腕はそれすら許さず、耳元にあてられた大きなてのひらが花祝の頭を包み込んで離さない。
押しつけられた唇の圧がわずかに弱まると。
帝の唇が花祝の上唇をついばみ始めた。
その妖艶な柔らかさに、花祝の背筋を何かわからない衝撃が
腕の力とは対照的に、やさしく、やさしく、何度もついばまれ。
思わず呼気をもらすと、その呼気すらも愛おしいとばかりに唇を重ねて吸われ、今度は下唇をついばまれる。
瑞々しい果実の味わいを楽しむように、幾度も、幾度も。
背筋に衝撃が迸るごとに、花祝の力は抜けていく。
体の表面は血の気が引いたようなのに、胸のあたりは無性に疼いて、体の内を熱い血が駆け巡っているように感じる。
もはや何を考えればいいのかすらわからない。
何も考えられない。
頭が真っ白になったところで、陛下の唇がようやく花祝から離れた。
それと同時に全身が脱力し、花祝は図らずも陛下の胸にしなだれかかりながら、大きく息を吐いた。
「な、なぜ……こんなご無体を……」
やっとのことでそれだけ言うと、帝は涼やかなお声で平然とお答えになる。
「花祝の心に別の男が居座っているだと? そんなことを聞いて、燃え上がらぬ男がどこにいる」
帝は遠慮するどころか、花祝に迫るのを余計に楽しんでいらっしゃるようだ。
「嫉妬に囚われて胸を掻きむしり、涙で袖を濡らす。そんな辛さも恋の情趣に富んで素晴らしいと思わぬか? そうした夜を重ねた暁に、花祝の心からその男を追い出すことができたなら、これまでにない喜びを手に入れることができそうだ」
そのお言葉に、花祝は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けてうなだれた。
「セクハラの次はヤンデレですか……。一体どれだけのエロ属性をお持ちなんだか……」
「やんでれ? また新しい言葉を聞いたな。花祝の国の言葉を聞くのも、俺の楽しみの一つだ」
「間違っても褒め言葉ではありませんからねっ!? それにしても、菖蒲様の時には引き下がられたとお聞きしてたのに、どうして私だと引き下がってくださらないんですか?」
(余計なこと言っちゃった!)
口づけからようやく解放されて気が緩んだのか、気づいた時にはもう遅い。
先ほどまで花祝を弄んでいた美しい唇が、にやりと妖しく歪められる。
「そうか。心に決めた男がいるというのは嘘なのだな?
「ちがっ! 本当に、私には心に決めたお方が……っ」
「こないだまでそんなことは一言も言ってなかったであろう? 突然そのような男ができたとでも言うのか 」
「そうですそうです! 突然できましたっ」
「ふむ……。今のそなたが俺以外に会っている男となると限られるな。もしや……あの
帝のお口から飛び出した、 “龍染司” の役職名。
それを聞いた花祝の脳裏に、楓の甘やかな笑顔がくっきりと思い出された。
その刹那の花祝の表情を、小兎を追い詰める狼のごとき彗舜帝がお見逃しになるはずがなかった。
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