五の四

 宴のために選んだ今宵のかさねの色目は、この時期らしい “杜若かきつばた” 。

 花の色を表した二藍ふたあい表衣うわぎにして、龍袿りゅうけいを紫の濃淡に重ね、一番下の五枚目の龍袿を萌黄もえぎとする伝統的な色目だ。


 それを纏う花祝を見て、帝が藍鉄の瞳を優美に細められた。


「今宵の花祝は、清楚な鈴蘭ではなく、艶やかな杜若か。いずれにしてもそなたの方が、千々の薔薇よりよほど趣き深く愛らしい。その杜若を今宵乱れ咲かすことができたなら、俺は甘き蜜の虜となってしまうであろうな」


「ふぇっ? な、何か仰いました?」


 薔薇の華やさと目の前の彗舜帝の艶やかさにあてられっばなしの花祝に、帝の殺し文句は刺さらなかったらしい。


「まあよい、夜はこれからだ」


 苦笑まじりにそう仰る帝が立ち上がり、花祝の手をお取りになった。


「花の香りは酒や料理の邪魔になるゆえ、後で片付けさせる。その前に、この花園をしばし楽しもう」


「はい!」


 重い十二単を纏う花祝が立ち上がるのに御手を貸してくださった陛下だが、花祝が立ち上がってもその手を離そうとならさらない。


 畏れ多いやら恥ずかしいやらで戸惑う花祝であったが、咲き乱れる薔薇を愛でつつ歩くうち、繋がれた手のことはあまり気にならなくなっていた。


「本物の薔薇は華やかで香りも良いですねえ……。絵巻ではこんなに美しい色や香りは表せませんもの」


「花祝がそれほど喜んでくれるのならば、用意した甲斐があったな。棘は除いてあるから、手に取ってみてはどうだ?」


 内裏中の花器をここに集めたのではないだろうかと思うほど、あちこちに生けられた薔薇の花。

 手近な花器の前で少し屈み、深紅の一輪をそうっと抜き取ると、花祝は花びらの感触や甘美な香りを存分に楽しんだ。


 嬉しそうな花祝の横顔を満足げにご覧になっていた陛下が、涼やかなお声を弾ませる。


「花祝、存分に花摘みを楽しむがいい。そなたが摘み取った花は、後で襲芳殿に届けさせることにしよう」


「えっ!? この薔薇、持ち帰っちゃっていいんですか?」


「切り花はそれほど長くもたぬだろう。今宵楽しんだ後は内裏の女官達に分けてやろうと思っていたが、それでも配りきれぬほどの数だ。好きなだけ摘んでいけばいい」


「うわぁ……ありがとうございますっ!」


 坂東では、春になると乳兄弟や弟とよく野原へ花摘みに出かけたものだ。

 懐かしく思い出しながら、花祝は花器から花を引き抜いていく。

 茎から滴る水で花祝が装束を濡らさぬようにと、帝は御直衣おのうしが濡れるのも厭わず、彼女の引き抜いた花を受け取っては束ねてお持ちになる。


「陛下、お召し物が濡れてしまいます。花は女官どのに引き取っていただいてはいかがです?」


「衣が濡れたら替えればよい。花祝と二人きりの花摘みを誰にも邪魔されたくないのだ。ほら、あちらには白い薔薇が咲いておるぞ」


「え、まだ摘み取ってもいいんですか?」


「好きなだけ摘んで持ち帰ってよいと言うたであろう。薔薇の香りは、女子おなごの肌を美しく保つ効能があるそうだぞ」


「小雪がそれを聞いたら、出来るだけ沢山摘んでこいと言われそうだわ……」


 御殿油おんとなぶらの火がゆらめく昼御座ひのおまし

 宵の口となり、明かりに照らされた薔薇の花弁が重なりの陰影をいっそう濃くする。


 彗舜帝の艶やかさも匂い立つほどに増しているが、御直衣おのうしの袖を濡らして花摘みをお楽しみなるそのお姿に、花祝の中での緊張はいつしかすっかりほぐれていた。


 帝が花束を抱えきれなくなったところで花摘みを終え、花が持ち出された後に酒と料理が運ばれる。


「そう言えば、内侍司ないしのつかさで配置替えがあったのですか? 先ほどご先導いただいた女官どのも、お料理を運んでくださる女官どのも、先日とは顔ぶれが違うような……」


 何の気なしに帝に尋ねた花祝であったが、陛下は意味ありげな笑みを浮かべて盃を傾ける。


「先ほど伝えたであろう? 花祝を傷つけぬよう、内裏の薔薇の棘は全て除いたと」


「…………?」


 なぜここで薔薇の棘の話が出てくるのかと、花祝は首を傾げる。


「さあ、花祝も飲め。そなたのは醴酒こさけ(甘酒)であるが、もっと強い酒がよければ御酒ごしゅ孰酒じゅくしゅを持ってこさせるぞ」


「いえっ! ありがたく醴酒をいただきます!」


 香りが邪魔をせぬようにと、一口いっこうの花器だけを残して前に置き、それを眺めながら盃を傾けなさる帝は、いつにも増してご機嫌が良さそうだ。


(やっぱり陛下も誰かと会話をしながらお食事なさるのは楽しいのよね。お酒の席でまたお戯れにならないかと身構えてたけど、今宵は楽しく過ごせそうだわ)


 花祝は陛下の端麗な横顔を見つめながら安堵すると、先日食べ損ねた朝餉よりもずっと豪華なあえに舌鼓を打った。


 花祝の故郷のこと、大好きな絵巻物のこと、初めてだらけの宮中での暮らしぶり。

 興がのるとついくだけた口調になってしまう花祝の話に、帝は楽しげに相槌を打ちながら、盃を空けなさる。


 酒としては弱めの醴酒でも、つい飲みすぎた花祝は頬がぽっぽと熱くなっているのに気づいた。

 いつしか夜も更け、そろそろ辞去する時機だろう。


「陛下。今宵は華やかで楽しい宴にご招待を賜り誠にありがとうございました。夜も更けてまいりましたし、そろそろ────」


 立ち上がりかけた花祝の手を、帝が掴みなさる。


「そろそろ好い頃合であろう……? 綻びかけた杜若を花開かせるのに、な」


「へ…………っ!?」


 ほろ酔い気分ですっかり油断していた花祝は、腕を引かれるままにぐらりと傾き、陛下の胸へぽすんと倒れ込んでしまった。

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