五の六

「そうか……。そなたは、あの男を……」


「ごっ、誤解ですっ!! 楓くんは関係な──」


 弁明しようと開いた口を、帝の唇が再び塞ぐ。

 開いたままの口に、熱を孕んだ厚みのある異物が差し込まれる。


「んぅっ!?」


 それが帝の舌であると花祝が認識する前に、寄りかかっていた陛下の御身と体勢が逆転し、陛下の重みが花祝の体にのしかかってくる。


 口の中でうごめく舌の感触に、ぞくぞくと訳の分からない刺激が花祝を支配する。


 ひんやりとした指先が、花祝のかさねの合わせに差し込まれる。


(どうして…………)




 言葉にできない花祝の思いが、涙となって頬をつたった。




「花祝…………?」


 それに気づいた帝がようやく唇をお離しになると、花祝は組み敷かれた体勢のまま緩んだ合わせを掻き合せることもせず、両手で顔を覆いしくしくと泣き出した。


「どうして……っ。どうしてわかってくださらないんですか……? 私は陛下をお守りしたいだけなのに……!」




 初めての宿直の夜から、彗舜帝には散々無体なことをされてきた。

 それでも、次に陛下にお会いすることを嫌だと思ったことは不思議となかった。


 どうしてなのかはわからない。


 ただ、この御方の傍にいたい、全身全霊をかけてこの御方をお守り申し上げたい、その気持ちは揺らぐどころか、日増しに強くなっていたのだ。


 それなのに────




「すまぬ……。戯れが過ぎた」


 帝はそう仰ると、腕をついて起き上がり、花祝の手をやさしくお取りになった。

 ご自分の御直衣おのうしの袖を花祝の目尻や頬にそっとあて、流れる涙を幾度も拭いなさる。


「龍染司の顔を思い浮かべた途端、むつごとを楽しもうという心のゆとりがなくなった」


 混乱の極みにあった心が落ち着き、溢れる涙が止まるまで、帝はそれ以上何も仰らず、花祝の涙を拭い続けた。


 しばらく経って、花祝はゆるゆると体を起こし、ようやく胸元の合わせを整えた。

 息を細く長く吐いて呼吸を整え、俯いたままで苦言を申し上げる。


「睦ごとがお好きであるとか、情趣を楽しみたいとか、陛下のお好みをとやかく言うつもりはございません。けれど、私は龍侍司として、陛下をお守りするという務めを全うしたいんです。その願いを陛下がお聞き入れくださらないのならば、畏れ多くも私は陛下を嫌いになります!」


 きっぱりとそう告げると、帝は「そうか……」と涼やかなお声を漏らされる。


「ということは……先ほどは、俺が嫌いで泣いていたわけではないのだな?」


「……は? だから、申し上げてるじゃないですか。私は龍侍司の使命を全うしたいから、睦ごとを迫られるのは困ると──」


「そうかそうか、ここまでしても、俺は花祝にまだ嫌われておらぬのか。ならば、あの龍染司をそなたの心から追い出すこともできそうよな」


「な、なんか、論点がずれてませんか?」


「ずれてなどおらぬだろう。俺は遣わしの守護よりも、花祝そのものを欲しておる。花祝さえその気になってくれれば、俺は遣わしに守られる立場を捨てて、そなたを手に入れることができるということだ」


 繧繝縁うんげんべりの畳の上にお戻りになり、脇息にもたれた帝が鷹揚にそう仰る。


 噛み合わない会話に呆れて平常心に戻りつつある花祝も高麗縁こうらいべりの畳に座り直し、きっと帝を見据えた。


「陛下はすぐにご自分の御身はどうでもいいと仰いますが、本当にそう思ってらっしゃるのですか? 民草を思いやる名君と、遠く離れた坂東にすら聞こえ渡る陛下が遣わしの守護を失ったら、豊かなこの国の平和が乱れるとはお考えになりませんか?」


 花祝の真摯な詰問に、陛下は涼やかな藍鉄の瞳を伏せられた。


「そなたも存じておるとおり、俺に嫡子のおらぬ今、次の帝となるのは異母弟の彩辻宮あやつじのみやだ。あやつならば、左大臣家という強き後ろ盾があるし、少なくともまつりごとは今よりずっと安定するであろう」


「そんなっ……! 彩辻宮様がご即位なされるなんてことがあってはなりません! だって、宮様が帝位におつきになるということは────」


 続く言葉があまりに不吉で、花祝は言いかけた口を噤んだ。


 桜津国の帝の交代に関するきまりごとの一つに、以下の項目がある。

 春宮として立つことができるのは、今上帝の嫡子のみ。今上帝が崩御した時に限り、春宮不在の場合に他の皇族が即位できる、と。


(つまり、彩辻宮が帝位につくのは、彗舜帝がお隠れあそばした時に限られるということ────)


「心配するな。遣わしの守護を失えば、どうせすぐに俺の命なぞ露と消える。彩辻宮を即位させようと、左大臣家が手を回すからな」


 花祝の真摯な思いをさらりと受け流されるお言葉に、花祝の頭で何かがぷつん、と音を立てた。


 十二単の重みを跳ね除けるように立ち上がると、花は帝の御前に歩み寄り、その頬をぱんっ! と思いきり叩いた。


「つぅ……っ! 何をするっ!?」


「陛下がわからず屋だからですっ!! !! だから絶っっ対に純潔は守り通しますからねっ!!」


 頭に血がのぼった花祝は、はあはあと肩で息をしながら、じんじんと熱をもつてのひらをぐっと握りしめた。


 呆然と頬をさすっておられた帝が、しばしの後に、くつくつと喉を鳴らしお笑いになる。


「本当にそなたは面白いおなごだな……。わかった。俺はもう花祝の純潔を奪うような真似はすまい。だが……」


「だが……?」


「前にも言ったが、俺は睦ごとが大好きだ。だから、そなたの代わりに、これまでどおり下女を抱く。それで構わぬということだな?」


 陛下の好みにとやかく言うつもりはない、と、先ほど花祝は確かに申し上げた。


「もちろんです!」


 と言いかけて────


 口を開けど、その言葉が声になって出てこぬことに、花祝は小さく驚いた。



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