五の二

 遡れるだけで千年の歴史をもつ、男女の “遣わし” による帝の守護。

 それが成り立つのは、遣わしが穢れなき身をもって龍の通力を使うからこそである。


 しかし、千年の間に三度、遣わしが密通し己の体を穢したことで、帝を守護する力を失い、国の乱れを招いたとされる史実がある。


 ある時は帝が急逝したことで後継者争いが勃発し、帝の不在が続く中で国政が大混乱した。


 ある時は守護を失った帝に物の怪が憑き、悪政を敷いたがために重税に苦しむ民たちの間に飢餓が蔓延した。


 またある時は、地方貴族と庶民の対立が原因で内乱が起こったが、龍の守護を失った帝が怯えて鎮圧に出なかったため、内乱が国じゅうに広がり、京が焼け野原になったこともある。


 龍侍司や龍染司の任を受けた遣わしが、次なる遣わしへ力を受け継ぐ時を待たずに純潔を捨てれば、この桜津国おうつのくに全体に混乱をもたらすことになりかねないのだ。


 この国の歴史を知る者として、そして帝を守護する力を与えられた “遣わし” として、己の進むべき道はわかっている。

 花祝は菖蒲の目をしかと見据えてきっぱりと答えた。


「遣わしとして生まれた以上、帝を守護し、この国の安寧を保つ自分の使命は重々承知しています。だからこそ、“かの御方” の御前でも、しっかりと務めを果たせるように自分を保ちたいと思うんです」


 あろうことか、初めての宿直とのいでいきなり唇を奪われたほかにも、膝の内に囲われたり、抱きしめられたり、添い寝をしたり……。


 典雅で端麗で艶やかな帝に触れられるたびに、心臓がばくばくとうるさくなって、冷静な思考を保てなくなる。


 正直今の自分には、陛下の色香に心を惑わされることなく十二年の務めを全うできると言い切る自信がないのだ。


 彗舜帝が即位してからの短い期間ではあるが、龍侍司としてお傍に仕えた菖蒲の助言を求め、花祝は縋るような眼差しを彼女に向けた。


 扇を開いたり閉じたりしながら考えを巡らせていた菖蒲が、ぱちりと扇を閉じて花祝を見た。


「そうね……。かの御方の魅惑に負けぬ心を保つのはなかなかに難しいことでしょうけれど、“愛の力” というのは有効だと思うわ」


「愛の力……ですか?」


「ええ。私の場合、冨樫の存在がありましたから、かの御方の麗しさを間近にしても、心が揺れることはありませんでした。花祝さんに心から愛するお方がいれば、惑わされることもなくなるのだと思いますけれど……」


 心から愛する人────


 恋も結婚も自分には縁のないものと諦め、絵巻の恋物語の世界に浸ることで乙女心を慰めていた花祝には、自分にそんな存在が現れるなんて想像もできない。


「そんなお相手などいるわけがありませんし、将来そんな方が現れるかもわかりません」


「今のあなたにしてみれば、確かにそう思うでしょう。私も、十二年前に冨樫と初めて対面したとき、まさか彼のことを愛するようになるとは露とも思いませんでしたもの。でも────」


 言葉を続けるのを少し躊躇った菖蒲だったが、開いた扇を口元に添え、花祝に耳打ちした。


「たとえ嘘でも、“心に決めた人がいる” とお伝え申し上げれば、かの御方に対して多少の牽制にはなるかもしれませんわ」


「────えっ!?」


「実は以前かの御方に口説かれた時、“夫婦となる約束を交わした人がいる” ときっぱり申し上げたところ、以後しつこく口説かれることはなくなりましたの。かの御方は后妃を迎えるおつもりがございませんし、いっときの寵を与える女にはお困りになりませんから、結婚の予定がある女を深追いすることはなさらないのよ。花祝さんも、嘘でもそうお伝えすれば少しは言動を控えてくださるんじゃないかしら」


「なるほど……。ご助言ありがとうございます!」


 一筋の光明を与えられ、花祝の表情が明るくなる。

 その様子に、ほっとして口元を緩めた菖蒲が、年の離れた妹を思いやるような優しげな口調で花祝に伝えた。


「それに、たとえ今はそれが嘘でも……。私は花祝さんにも心から愛する方がきっと現れると信じております。人は愛の力で心を強くできます。それは龍の通力を授かった我々とて同じこと。将来の幸せを掴むためにも、遣わしだからと言って恋を諦める必要はないと私は思いますわ」


「菖蒲さま……っ」


「もちろん、現役の龍侍司として、純潔を守り通すことだけは忘れてはなりませんよ?」


「もちろんです! 菖蒲様のように龍侍司として立派に務めを全うし、幸せも掴みたいと思います!」


 ふふ、と微笑み合ってから、菖蒲は麦湯を口に含み、供された菓子に手をつけた。


「内裏で出される唐菓子からくだものも上品で美味しいけれど、うちの屋敷の庖丁(料理人)が作る菓子もとても美味しいの。今度はぜひ屋敷に遊びにいらっしゃい」


「はい! 近いうちにぜひ! ……あの、小雪も一緒に伺ってよろしいですか?」


「もちろん。小雪の分の菓子もちゃんと用意しておきますよ」


 菖蒲がそう答えると、母屋もやの御簾越しに「やったぁ!」と小さな声が聞こえてきた。

 人払いをしたというのに、小雪はどうやらそこで聞き耳を立てていたらしい。


 菖蒲と苦笑いを交わし合うと、花祝は「小雪、もういいわよ」と彼女を呼び寄せた。


 その後は三人で歓談し、菖蒲が襲芳殿を辞したのは、夕闇が迫る頃だった。

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