五、龍侍司、先人より言加へ給ひけるを、帝に聞こえたりしが
五の一
花祝に役を引き継ぐまで、この
懐かしそうに
「菖蒲様。このたびはわざわざご足労いただきまして誠にありがとうございます。お元気そうで何よりでございます」
「龍侍司どのもお元気そうで。つつがなく務めを果たされているようですね」
「はい。これまで三度ほど守護に侍りましたが、何とか……」
龍侍司の頃よりもだいぶやわらかくなったその笑顔に、先輩をお迎えする花祝の緊張も一気にほぐれた。
「京に知り合いのいない私にとって、菖蒲様は頼れる姉上のような存在なんです。小雪も菖蒲様にお会いできるのをとても楽しみにしていたのよね!」
菓子と麦湯(麦茶)を運んできた小雪に目くばせしながら微笑むと、小雪は頬をほんのりと染めつつ頭を下げた。
「まあ、そう言ってもらえると私も嬉しいわ。引っ越して早々に主人が家を空けたものだから、一人での荷ほどきにも飽きていたところだったのです。今日は堅苦しいことは抜きにして、楽しくお話いたしましょう」
つい先日まで、冨樫のことを “
その呼び方に菖蒲が手に入れた幸せが滲み出ているように感じて、花祝の口元も自然とほころんだ。
「楓くんと冨樫様が残零集めにお出かけになって、今日で六日になりますね。新婚早々旦那様がお留守では、菖蒲様もお寂しいのではございませんか?」
花祝が問うと、菖蒲は笑みを浮かべながら浅くため息をついた。
「そうね。お互い内裏にいる時は別々でいる時の方が長くて当たり前だったのに……。ひとたび夫婦として一緒に暮らし始めると、愛する人が傍にいないということが、こんなにも寂しくて不安になるものだと初めて知りましたわ」
現役の龍侍司の頃は凛として威厳のあった菖蒲だが、物憂げな横顔には人妻らしい艶っぽさが表れていて、花祝までどぎまぎしてしまう。
菖蒲の纏う雰囲気がだいぶ柔らかくなったのは、十二年間に及ぶ大役を果たし、肩の荷が下りたことだけが理由ではないのだろう。
「ところで、花祝さんが私をお呼びになったのは、何か聞きたいことがおありだったのではなくて?」
花祝を名前で呼ぶほどに打ち解けた様子の菖蒲に問われ、花祝は「はい」と頷いた。
「小雪。悪いけど、席を外してくれるかしら。菖蒲様と二人だけでお話したいことがあるの」
世話好きで噂好きな小雪としては、二人の間にどんな話が出るのかと興味津々だろうが、下手なことは聞かせられない。
花祝が両手を合わせて「ごめん!」の仕草をするので、小雪は一礼すると渋々
小雪や部屋付きの女房がいなくなったのを確かめて、花祝は菖蒲との距離を詰めた。
そして、扇を口元に添えながら、できるだけ小声で尋ねた。
「菖蒲様が先日仰ってらした “邪気や物の怪よりも恐ろしい方” のことですけれど──」
花祝がこう切り出すと、菖蒲が含みのある笑みを浮かべる。
「あら、その話を切り出すということは、“かの御方” の恐ろしさを早速目の当たりになさったということかしら。まあ、かの御方のことですから、あなたのことを放ってはおかれないとは思っておりましたが」
「あの……そのぅ……菖蒲様も、かの御方からああいうことをされたりしたのでしょうか? 恥ずかしいやら畏れ多いやらで、今後私はどのように対処したら──」
「えっ? “ああいうこと” って、どういうことです!? まさかあなた、かの御方にすでに身を委ねてしまったのでは──」
「いえっ!! まさか!! 龍侍司になって早々に、そんなことはしておりませんっ」
青ざめる菖蒲に、花祝は慌てて否定してみせる。
「そう、それならばよいのですけれど……。かの御方の美しさと艶やかさを前にして心動かぬ女はまずいないでしょうからね。それに加えてあの調子ですから、龍侍司としての務めに障りが出ぬよう、こちらが心を強く保たねばならぬのです。遣わしが通力を失ったらいかなることが起こるか、花祝さんもご存知でしょう?」
菖蒲の言葉に、花祝はこの国の歴史に残るいくつかの事件を思い起こした。
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