四の四

 花祝ははっと我に返る。


(そうよ。今はこんな風に添い寝してるけど、これは陛下を邪気からお守りするため。陛下が私に触れたがるのは、単に男女のむつごとが大好きな “エロ陛下” だから。それなのに、私ってば何を動揺しているの!?)


 体を強ばらせた自分の反応に戸惑いつつも、花祝は龍侍司としての務めを果たすことに意識を向けることとし、陛下に祝福の笑みをお贈り申し上げた。


「そんなおめでたいお話が出たのなら、何よりではございませんか」


「……なんだ、つまらぬな。焼きもちを焼いてくれたのではなかったのか」


「は?」


「そなたの反応が見たくて言わなかったが、俺は左大臣家の姫を入内させるつもりなどはなからない」


「そうなんですか? だって、有力貴族の筆頭である左大臣家と親戚になるのは、陛下にとっても良いお話なのでは?」


「この国の政治をおもんばかるならば、そうするのが最善なのだろう。だが、俺は絶対に豊原家とは血縁になりたくない」


 藍鉄の瞳の翳りが一層濃くなり、花祝は思わず身震いした。


 帝があらわになされたこの負の感情こそ、青橡あおつるばみの邪気を呼び寄せた原因なのではなかろうか。


「父君の御代みよまで、内裏には後宮が存在した。俺の母である紅藤女御べにふじのにょうご、左大臣家出身の大后おおきさきの他にも、女御や更衣が何人も囲われていたのだ。皇女ひめみこばかりが生まれる中で、待望の男児である俺がようやく生まれた時、院のお喜びようは格別だったらしい。だが、当時すでに中宮(帝の正室)であった大后よりも先に男児を産んだ母君は、後宮の后妃達の妬みの対象となってしまった」


「そんな……っ」


 花祝の愛読する宮廷恋愛絵巻の中にも、后妃の中で身分の低い更衣が他の妃達に苛められる場面があったが、実際の後宮でも同じことが起こっていたのか。


 愕然とする花祝を知ってか知らずか、なおも帝はお話を続ける。


「俺たち母子への風当たりがさらに強くなったのは、数え五つで俺が春宮とうぐう(皇太子)に立てられてからだ。それから半年もせぬうちに、中宮に皇子、つまり彩辻宮あやつじのみやが生まれた。その日から、母君は俺が暗殺されるのではないかと疑心暗鬼になった。実際に俺たちの食事や菓子に毒を盛られたこともあったし、常に命をおびやかされていた」


「だ、内裏の後宮って、そんなに恐ろしいところだったんですか……」


「俺が后妃を迎えず、後宮を作ろうとしない理由がわかるであろう?」


 淡々と仰る帝だが、そのお言葉の奥に潜んだ深い悲しみと憤りが、花祝の胸を詰まらせる。


「毎日を怯えて暮らすうち、母君は心身ともに疲れ果て、十三で俺が元服したのを見届けた直後に出家してしまった。俺が即位するまで大后からの圧力は続いたし、大后の兄である左大臣の元頼もとよりが俺を廃そうと裏で動いていたことは明らかだ。即位後の今は表面的に俺を敬う姿勢を見せているが、なんとかして外戚の立場を得ようと、此度のように娘の入内を幾度もごり押ししてくるのだ」


「左大臣家の豊原氏って、猛烈に陰険な人達なんですね……」


 曽祖父の代に受領国司として赴任して以来、花祝の一族は坂東に根を下ろしている。

 中央の貴族達のどろどろした権力争いと無縁なことがいかに幸せであるかを思い知る花祝だが、帝の場合は、その渦の中心からどう足掻いても抜け出すことは叶わない。


(民を思い、国政に熱心だと評判の陛下が、御心の内にこんなに苦しい思いを抱えていらしたなんて……)


「なんてお可哀想な陛下……」


 花祝の口から思わず同情の言葉が零れたが、帝はそれを自嘲めいた笑みで受け流してしまわれた。


「さて、今宵の宴で俺が青橡の邪気に憑かれた理由が、これでわかったであろう? 」


 宴の場で欲望や愛憎が大きく渦を巻く中、増幅した青橡の邪気を、陛下がご自身の御身に全て引き込んでしまわれた。

 陛下の憤りと苦しさがいかほどに深いものであったのかと思うと────


「陛下……。もう大丈夫です。後はもう何もお考えにならず、ゆっくりお休みください」


 本来ならば、帝を直視するなど無礼で畏れ多いこと。

 けれども、花祝は藍鉄の瞳をまっすぐに捉え、悲しげなその揺らめきを受け止めようと、じっと見つめ返した。

 それから単衣の合わせを必死で掻き抱いていた右手を離し、御単衣越しに帝の胸にそっとあてた。


「花祝…………」


 ご自身の胸に添えられた花祝の手を、右手でそっとお取りになると、帝はその手を引き寄せて、ちゅ、と唇にあてられた。


 心臓が跳ね上がり、みるみる顔が熱くなるが、花祝は指を引き抜くことなく必死に耐える。


 花祝の指先に口づけること、三度。

 陛下はようやくその手をお解きになると、真綿に触れるようなやさしさで、花祝の体を包み込まれた。


「俺の身などどうなろうが構わない、龍侍司の守護など俺には必要ない、そう思うているが……。そなたが傍にいて良かったと、今は素直にそう思える」


 身動みじろぎすればたやすくほどけそうな腕の中。

 凛としてどこか寂しげなお声を聞きながら、花祝はじっとしていた。


 もうこれで今宵は青橡の邪気が帝に憑くことはないであろう。


 守護の務めを果たした後も、帝の寝息が聞こえるまで、花祝は陛下の腕の中から抜け出ることはしなかった。


 そして穏やかで規則的な呼吸を聞くうちに、いつしか自分も眠りの淵へゆっくりと落ちていったのだった。

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