四の三

 この世界に蔓延る邪気には、いくつかの色がある。

 人の死や病に引き寄せられるのは、紫黒しこくの色の邪気。

 青橡あおつるばみの色の邪気は、嫉妬や恨み、陰謀など、人の負の感情に引き寄せられて集まるものだ。


 彗舜帝の御身に纏わりつき、苦しませるほどに濃厚な青橡の邪気が集まったということは、左大臣邸の月見の宴で何かあったに違いない。


「花祝」


 顔容かんばせから笑みの消えた帝が、硬い声色でお呼びになった。


「宴での出来事を思い返せば、俺はまた邪気を呼び寄せてしまうであろう。このまま俺の体を浄めていてはくれぬか」


 藍鉄あいてつに澄んだ瞳が、花祝の瞳を捉えて揺らめく。

 端麗で艶やかなその顔容に、ただでさえ早鐘のように打つ花祝の鼓動がさらに早まる。

 帝をお守りするのが務めとは言え、陛下に覆い被さったままの体勢では、そのうち心臓が勢い余って口から飛び出てきてしまいそうだ。


 返答に窮した花祝の表情を見て、帝はくすりと小さく笑い声を漏らされた。

 それから、御身の上に乗せた彼女を抱き締めたままくるりと横を向かれた。


「これならば、そなたも少しは楽になろう」


 帝は左腕を花祝のうなじに敷いたまま、添い寝をさせるような姿勢に彼女を置く。

 それから横向きになった二人をすっぽり覆うように、龍袿を掛け直された。

 畳に体はついたものの、花祝の心臓は相変わらず早く大きく拍を刻んで暴れ回る。


 それでも体を押し付け合って密着していた時よりは幾分ましになったので、花祝は添い寝の体勢のまま、帝のお話をお聞き申し上げることにした。


「左大臣邸で催された今宵の月見の宴だが、元々俺は行く気がしなかったのだ。しかし、高月院こうげついんからのお誘いとのことで、出向かぬわけにはいかなった」


 高月院とは、先帝すなわち彗舜帝のお父上のことである。

 一昨年に譲位され、現在は桜花京の東にある邸宅で隠居生活を送られている。


「宴に院が出向かれたということは、大后おおきさき様もご同伴なさったということですか?」


「左大臣家は大后の実家であるから当然だ。さらにその宴には、彩辻宮あやつじのみやも出席していた」


「彩辻宮様も──」


 高月院の正室である大后は、さきの左大臣の娘であり、現左大臣・豊原元頼とよはらもとよりの妹君である。

 彩辻宮とは、高月院と大后との間に生まれた皇子。彗舜帝の異母弟で、左大臣にとっては甥となるお方だ。


「左大臣家に縁のある方々ばかりが招かれたということですか?」


「そうだ。もっとも、俺以外は、ということになるがな」


 涼やかな藍鉄の瞳がふと翳る。

 その苦い表情に、帝の御出自に思い至った花祝の胸がきゅっと締め付けられた。


 彗舜帝のご生母である紅藤女御べにふじのにょうごは、三代前まで右大臣を務めていた名門三条家の姫君だった。

 しかし、六十年ほど前に女御の曽祖父にあたる当主が急逝し、後継の子息がまだ幼かったため、遠戚にあたる豊原家の当主が後見人となった。

 当時の豊原家は中納言の家柄であったものの、右大臣家の後見人として内裏で力を蓄えていき、次代の右大臣に自分の息子を就任させ、三条家を追い落とした。

 その後、さらに力をつけた豊原家は二代続けて左大臣を務め、娘を入内じゅだいさせることで帝の外戚として絶大な権力を持つに至った。

 一方の三条家は没落し、紅藤女御はその美しさから先帝に望まれて入内したものの、中宮(帝の正室)の座は左大臣家の姫に譲ることとなってしまった。


 まつりごとに疎い花祝だが、実家は貴族の端くれでもある。

 くらい人身を極めた左大臣家にとって、血縁者ではない今上帝は目の上の瘤のような存在。

 一方、母方の後ろ盾の弱い陛下にとっては、左大臣家は無下にはできない相手。

 そういう微妙な関係なのだろうということは、おおよそ推察できた。


「それで……月見の宴で、左大臣家側と何かもめごとでもあったのですか?」


 花祝が問うと、帝はふっと口元を苦々しげに歪められた。


「月見の宴というのは、あくまでも俺を左大臣邸に誘い出す口実でな。俺と左大臣家の姫を引き合わせ、入内の話を進めるために催されたものだったのだ」


「え……!?」


 花祝の体がかちりと固まる。


「どうした? 青天の霹靂にでも出くわしたような顔をしておるぞ?」


「だだだ、だって、陛下は后妃をお迎えにならないのでは……っ!?」


「花祝は、俺が后妃を迎えてはいけないと?」


「いえっ、そんなことは————」


“ございません” と言いかけた花祝の喉元が、なぜだかきゅっと苦しくなる。


 うなじに敷かれた硬い腕。花祝を抱き留めた胸。楽しげに触れてくるしなやかな指先。

 そして、いきなり重ねられたやわらかな唇────


 戸惑ういとまも与えられぬうちに自分に向けられるそれらだけでなく。


 わらわのように無邪気な笑顔。端麗で艶やかな横顔。涼やかなお声も、憂いを帯びた藍鉄の瞳も────


 お会いする度に触れていたそれらすべては、花祝のために在るのではない。

 たった数回陛下の守護に侍っただけで、この先も否応なしに向けられるものだと思い込んでいた。


 やはり帝は后妃をお迎えせねばならぬお立場の方。

 いつまでも花祝を戯れの相手になさるはずがない。


 今宵の宴の目的を知り、花祝はそんな当たり前のことに、ようやく思い至ったのだった。

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