四の五

 顔にかかる下がり(肩の辺りで切りそろえた額髪)を、誰かの優しい指先がゆっくりと花祝の耳元に掛ける。

 こそばゆい感覚にふと目を覚ますと、少しはだけた単衣から覗く殿方の胸板が眼前に迫っていた。


「目を覚ましたか?」


 涼やかなお声がすぐ近くで聞こえ、花祝は昨晩陛下に添い寝したまま眠ってしまったのだと思い至った。


「ひゃあっ!? すすす、すみませんっ!」


 寵を受けたわけでもないのに一晩を陛下の御帳台みちょうだいで過ごし、陛下よりも先に起きて身支度をせねばならぬところを、だらしなく寝こけて寝顔まで晒してしまった。


 その畏れ多さと恥ずかしさとで、驚いた子猫のごとく跳ね起きた花祝を前に、陛下はくつくつと楽しげにお笑いになる。


「朝から元気なのはよいが、勢いよく動くと単衣がさらに乱れるぞ」


 そのお言葉に、はっとした花祝が合わせの緩んだ胸元を慌てて掻き合せると、両肩を掴まれて、ぽふん、と陛下の胸に引き寄せられた。


「女の寝乱れた姿がとばり越しの柔らかな陽光に照らされるのは、実に艶やかで趣深いな」


「ちょ、お離しくださいっ!」


「よいではないか。後朝きぬぎぬの情趣とまではいかぬが、朝の甘やかな気だるさを、花祝としばし味わいたい」


 そう仰る帝も、結い上げたもとどりが乱れ、やわらかな後れ毛が見えている。

 その御姿のなまめかしさ、美しさは、夜の仄暗い灯火の下で見るよりも、清浄な朝日を受けてより一層引き立つかのようであった。


 一晩を共に過ごした男女が、朝になって折り重なっていた互いの衣を身に着けつつ別れを惜しむ。

 坂東にいた頃、恋愛絵巻を広げながら、そんな後朝きぬぎぬの切なくも甘やかな場面にうっとりしていた花祝であったが、よもや自分が麗しき公達(しかも帝!)とそれを再現することになろうとは。


 心臓はばくばくとうるさいのに、陛下の腕の中は甘く心地よく、無下に拒むことなどできそうもない。

 絵巻の中の恋人たちの別れ難さを追体験するかのように、花祝は黙って帝の胸に自分の身を預けた。




 小鳥のさえずりが耳に届く。

 そんな静けさの中。




 ぐうぅ……っ




 蛙の声のような音が御帳台に響いた。


 花祝の腹の鳴る音だった。




 一呼吸の間を置いて、帝が喉を鳴らして忍び笑いをなさる。


「色気より食い気か。そなたは本当に面白い娘だな」


「す、すみませんっ! 夕餉をいただいてから、かなり時間が経っておりまして……っ」


「俺は宴で遅くまで飲み食いしていたが、花祝はそうよな。ここに朝餉を用意させよう」


「いえっ、守護の務めも果たしましたし、私はすぐに下がります!」


 慌てて遠慮した花祝だが、帝は構わずに「朝餉を二つもて」と仰った。

 いつの間に侍っていたのか、「はい」と声がして、側仕えの女官が昼御座ひのおましを出ていく音がする。


 龍袿を羽織り、簡単に身なりを整える時間は与えられたものの、花祝は結局帝と二人、朝餉をいただくことになった。

 昼御座に台盤(食卓)が用意され、それぞれの膳の上に粥やかぶあつもの、鮎の塩焼きなどが並べられる。

 龍侍司とて女官の中ではかなりの高位であり、出される食事の豪華さに毎日驚いている花祝だが、帝の召し上がる朝餉は龍侍司のものより二~三品も多く、同じものを用意されて恐縮してしまう。


「さあ、食べよう」


「い、いただきますっ」


 朱漆あかうるしの椀に盛られた粥には、桜の形に飾り切りして炊いた人参や大根が入っている。

 その手の込みように感心しつつ匙を入れると、白い粥の中に黒い物体が混じっているのが見えた。


「……?」


 粥をかき分けつつ、その黒いものを匙にのせ、まじまじとそれを見つめる花祝。


「花祝……? どうした?」


「粥の中に蜘蛛が入っていました」


「蜘蛛だと? なぜそのようなものが……。龍侍司の粥を新しく持ち直せ。奉膳ぶぜんをここに呼べ」


 苦々しぜに眉をひそめられた帝が、鋭い声で女官に指図する。

 内膳司うちのかしわでのつかさの長官である奉膳を呼びつけるということは、蜘蛛の入った粥を供したことで厳しいお咎めがあるに違いない。


 奉膳を庇おうと内心焦った花祝は、何事もなかったような顔で椀を置き、帝をまっすぐに見つめた。


「陛下、奉膳どのをお呼びだてするほどのことではございませんわ。きっと昼御座まで膳を運ぶ間に入ってしまったのでございましょう。粥を取り替えていただくだけで十分です」


「しかし、せっかく二人でゆっくり朝餉を食べようというのに、花祝も随分と気分を悪くしたであろう? 」


「いえ、蜘蛛など坂東で見慣れておりますから、何とも思いませんよ? むしろ、蜘蛛は害虫を食べてくれるので、畑地の多い坂東では大切に扱っておりましたから」


 花祝が平然と答えていると、目の前の膳が丸ごと下げられた。

 帝の側仕えをする女官が大袈裟なほどに眉をひそめ、いかにも遠慮がちに花祝に話しかけた。


「他の皿にも虫が入ったやもしれませぬゆえ、龍侍司様のお膳は全て下げさせていただきます。新しきものをご用意するとなると一刻はかかるかと思われますが、いかがいたしましょう」


「陛下の公務のお時間もありますし、御遠慮申し上げます。襲芳殿の方でも私の朝餉を用意しているはずなので、お気遣いは無用です」


 帝のお執り成しを待たずに花祝が告げると、女官は「かしこまりました」と頭を下げ、すす、と下がっていった。


「粥に蜘蛛が入っていたのに平然としてらっしゃるなんて、やはりひな育ちの方は強い心臓をお持ちなのね。宮仕えの長い私達には考えられないわ」


「粗野な坂東の方ですもの。食事のお作法もきっとお見苦しくて、このまま朝餉を召し上がっていたら陛下の前で恥をおかきになっていたに違いないわ。お膳ごと下げられて、龍侍司さまとしては却って良かったのではないかしら」


 膳を下げられ、所在なげに座る花祝の耳元に、御簾みすの向こうに侍る女官達がひそひそと囁く声が届いた。

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