三の六

「きゃあああっ!!?」


 ひんやりとした御手で鎖骨の下をなぞられ、花祝は思わず仰け反った。

 と同時に、振り向きざまに帝の頬を平手打ちし。


「真っ昼間からどこに手を入れるんですかっ!」


 今の勢いで彗舜帝の膝の上から飛び退くことができたことには気付かぬまま、花祝は思うに任せて帝を詰り申し上げた。


 しかし、帝はというと、くつくつと涼やかな忍び笑いを漏らし、面白そうに頬をさすってらっしゃる。


「今日もまたそなたの平手打ちを食ろうたな。内裏のすました女にはない趣きがあって、花祝はまことに味わい深い」


 帝の心底楽しそうなお顔に、謝罪の言葉も忘れた花祝は呆れるばかり。


「人が油断した隙に何てことを……っ! 清浄なる気を溜めていらしたんじゃないんですか!?」


「花祝の纏う龍袿にこそ効果があるのであれば、花祝と龍袿の両方に同時に触れるのが最善ではないかと思うてな。龍袿を脱がせられぬのは口惜しいが、脱がせず触れるというのも情趣があろう?」


「御物忌みの真っ最中に、一体何の情趣ですか、この “エロ陛下” っ!」


 またしても坂東のお国言葉が出てしまった花祝だが、帝はどこ吹く風といったご様子で涼やかな笑みを浮かべていらっしゃる。


 彗舜帝の楽しむ “趣き” が自分の感性とはあまりにかけ離れていて、花祝は変な頭痛を覚えて頭を抱えた。


「そのように俺から離れていては、守護の務めが果たせぬだろう。こちらで共に水菓子を食べようではないか。この芒果マンゴーなぞは遠く印泰国からの貢物であるが、香りも甘さも芳醇で最高の味わいであるぞ?」


 一口大に切り分けられた橙色の瑞々しい果実を楊枝に刺し、帝が畳から下りた花祝に差し出した。

 珍しい果実の芳しい香りに喉がごくりと鳴るが、外国からの貢物という言葉に、花祝はふとあの花のことを思い出した。


「そう言えば……。陛下、この昼御座ひのおましに、薔薇の花は飾っておいでですか?」


「薔薇の花? 何故そのようなことを聞く?」


「私付きの女房が申しておったのです。“清龍殿には棘付きの薔薇がある” と」


「棘付きの薔薇、か……」


 涼やかな藍鉄の瞳が翳り、どこか遠くを見つめたようになる。

 呟いたお口元が苦々しげに歪められ、嘲笑うようなため息が零れた。


「確かに、この内裏にはかつて美しい薔薇が咲き乱れていた。幼き頃の俺はその棘に触れ、幾度となく苦しんだものだ」


「え……っ? 薔薇の棘には毒があるのですか!?」


「気にするな、もののたとえだ。……しかし、棘の痛みに懲りて花園をつくることを拒んでおるのに、やはり花があればおのずと棘も出るものらしいな」


 御言葉の意図がはかりかね、小首を傾げて聞く花祝を見て、帝の顔容かんばせに柔らかさが幾分戻る。


すさんだ地に咲く一輪の野花にこそ、趣き深く心に染み入る美しさがあるのだがな」


「そ、そうですか。陛下は咲き誇る薔薇より、控えめな野花がお好きなのですね」


 そう受け答えた花祝だったが、涼やかな眼差しをまっすぐに向けられ、何故だか鼓動がとくとくと早くなるのを感じた。


(今のお話からすると、陛下はあまり薔薇を好まれてはいないみたいだし、ここには飾られていないのね、きっと)


 花祝のお気に入りの絵巻に描かれていた薔薇の花を実際に見ることができるかもしれないと期待していたが、残念ながらそれは叶わないらしい。


「ほら、俺の守護をするのが務めなのだろう? もう肌には触れぬから、こちらへ来たらどうだ」


「でっ、でもっ、お傍へ参ればまたあの格好になるのでは──」


「もちろんだ。物忌みには、花祝の纏う龍袿に触れるのが一番効果がありそうだからな」


「そんなっ! 私だって龍侍司として、きちんと守護を──もごっ!?」


 思わず前のめりで反論しようとした花祝の口めがけて、帝が芒果を突っ込んだ。

 反射的に咀嚼すると、濃厚な果汁が口の中いっぱいに広がり、いかにも異国情緒あふれる香りが鼻を突き抜ける。


「な……、こ……、これ、お、美味しいっ!!」


「そうか、美味いか。ほれ、ここに沢山あるぞ」


「いっ、いいんですか!? でも、陛下の召し上がるものでは……」


「この皿盛りを見ろ。これだけの量を俺一人で食べられるわけがなかろう。俺が食べ切れなかった分は、“すべり” として内裏で働く者達に分けられる。花祝にも当然それを食べる権利がある」


「へぇー。内裏にはそんな風習もあるのですね」


「水菓子も、共に楽しむ相手がいればことさらに趣き深い味わいとなろう。俺に味気ない思いをさせないでくれ」


 わらわのように無邪気な笑みを浮かべたかと思えば、寂しげな色をたたえた眼差しをこちらへ向けてくる帝の表情に、花祝はえも言われぬ胸の疼きを感じた。


 おずおずと膝を進めて帝の御許おもとに近づくと、もう一度楊枝に刺した果実を差し出された。

 ぱくりと口にすると、その甘さに口元が綻ぶ。

 帝はその表情を満足げにご覧になりつつ楊枝を皿に戻すと、ふわりと抱き上げるように花祝を寄せて、再び膝の内に囲ってしまわれた。

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