三の七

 とりの刻を越えた夕方、龍侍司の戻りの知らせを受けた小雪が控えの間を出て待機していると、程なくして花祝が清龍殿の簀子すのこを渡ってきた。


御物忌おんものいみの守護、誠にお疲れ様でございま…………って、え? 花祝さま!?」


 礼をして出迎えた後に顔を上げた小雪が狼狽える。

 なぜなら、自分の主人がたった数時間の務めとは思えぬほど疲労困憊した様子だったからだ。


「随分お疲れのご様子ですね……」


「ライフをガリガリ削られたわ」


「は? らいふ? がり?」


「思わず国の言葉が出ちゃった。気にしないでちょうだい」


「随分とお疲れのご様子ですけれど、厄介な物の怪でも現れたのですか?」


「ええ、本当に厄介よ。これから御物忌みのたびにをされたら、心臓がもたないもの……」


 よくよく花祝を観察すると、清龍殿へ向かう前に自分が着付けたはずの唐衣や表着が乱れている。

 物の怪と対峙した際に、激しく動きでもしたのだろうか。


 ふらふらと覚束ない足取りで襲芳殿へ戻る後ろ姿は髪も乱れていて、小雪は疲れきった主人のために、夕餉の後に甘い菓子でも用意してさしあげようと思うのだった。


 ❁.*・゚


 自室に戻り、かさねを脱いで普段着のうちきに着替えると、花祝は脇息にもたれかかり、ふうっと大きく息を吐いた。


 結局、御物忌みが終わるまでの間、帝はご自分の膝の内から花祝を解放してくださらなかった。


 後ろから花祝を抱き締め、髪を弄ばれたり、襲の合わせを指でなぞられたり、まるで大切な人形で遊ぶわらわのように楽しそうにしていらした。


 心臓が飛び出しそうになるのを必死に抑えつつ、言い訳を考えては抜け出ようとしたが、帝はそれをお許しくださらない。

 酉の刻を告げる太鼓の音でようやく腕を解いてくださったが、


『ほれ、花祝の龍袿に終始触れていたから、邪気も物の怪も寄り付かなかっただろう?』


 と得意げに仰られた。


 その涼やかな笑みを見て、


(ああ、きっとこれからは御物忌みのたびにこうなさるおつもりなのね……)


 と花祝は愕然としたのだった。


 こうして自室でひとり休んでいても、未だに帝の骨ばったお体の固さや温もりとか、髪を弄びなさる指先の繊細さとか、耳元で囁かれるときの息のくすぐったさとか、鼓膜を震わせる涼やかなお声とか、そういった諸々の感覚が生々しくよみがえって押し寄せては、いたずらに鼓動を早くする。


 それと共に思い出されるのは、口の中いっぱいに広がった、あの芒果マンゴーの濃厚な甘さ。


(楓君が桃のように瑞々しくて爽やかな甘やかさだとしたら、陛下は芒果のように癖の強い甘やかさよね)


 どちらもひとたび味わえば、花祝の心はそのかぐわしさに惑わされてしまいそうになる。


(龍の通力を授かる者として、もっと心を強くもたねば駄目よね!)


 気合いを入れ直すように、花祝は手のひらで自分の両頬をぺちんと叩いた。


 ❁.*・゚


 夕餉を終え、膳を下げる女房に「ご馳走さまでした」と花祝が声をかけた。

 その様子からは、御物忌みの疲れはだいぶ取れているようで、小雪はほっと胸を撫で下ろした。


「花祝さま、今宵は花祝さまのために、とっておきの菓子(食事以外の軽食)を用意してありますよ」


 小雪がそう声をかけると、花祝の顔がぱっと輝いた。


「えっ? お菓子?」


「はい。夕餉の後に召し上がるならば、水菓子(果物)がいいだろうと思いまして、大膳職おおかしわでのつかさに勤める知り合いに交渉して譲っていただきました!」


 大膳職というのは、内裏で生活する者達の食事や饗宴の際の食事を用意する部署である。

 近隣諸国からの献上品や全国各地から届けられた特産物などの珍しい食材もそこで管理されていて、帝のお召し上がりになる分を内膳司うちのかしわでのつかさ(帝の日常の食事を調理する部署)へ渡し、残りを皇族や臣下に分配する。

 小雪はその大膳司に顔を出して、花祝が喜びそうな珍しい水菓子を見繕い、襲芳殿へ届けてもらうように手配しておいたのだ。


 日頃から内裏の様々な部署に知り合いをつくり、上手く交渉ごとを進めることができる、小雪の社交性の高さゆえに成し得ることである。


 得意げに胸を張った小雪が傍に控えた部下の女房に目配せすると、その女房が水菓子の皿盛りを花祝の前へと運んできた。


「え……っ? これって──」


「西華国の桃と、印泰国の芒果という果実でございます。桃は我が国でも初夏にとれますが、この時期に食べられるのは珍しいでございましょう? しかも、西華国の桃は香りが爽やかで、とても甘いと評判ですの。芒果の方は南国特産の果実で、芳醇で濃厚な甘みが癖になる味わいです。どちらもたっぷり用意しましたので、お好きなだけお召し上がりくださいませ!」


「桃と、芒果…………」


 二つの果実から競うように立ち上る甘い芳香。

 花祝の脳裏には、再び楓と彗舜帝の顔が思い出される。


「まあっ!? 花祝さまっ、お顔が真っ赤ですわっ! お疲れから熱でも出たのではございません? さ、そんな時こそ水菓子をたっぷり召し上がってくださいましね!」


 小雪にずいっと皿を差し出され、花祝の口からは「たはっ」と情けないため息がこぼれ出たのであった。





(三、龍侍司の初めて味わひし甘き果実に心動かさるること おわり)

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