三の五

 桜津国おうつのくににおける物忌ものいみとは、凶日にけがれを避け、邪気に近寄られぬように、日常生活の営みを制限することである。


 人が穢れをまとい、邪気や物の怪に憑かれると、判断力を欠いたり、怪我や病気になったり、ひどい時には正気を失って自他に危害を加えたりすることがある。

 龍の加護を約束された帝とて、それは例外ではない。


 そのため、帝の御物忌おんものいみの場合は、龍侍司が守護をして邪気や物の怪を祓うのはもちろんのこと、政務を休み、できる限りひとところに留まって行動を慎み、質素な食事をとるということになっている。


 なっているのだが……。


 御帳台みちょうだいの中には、花祝が見たこともない南国の果実が皿盛りとなって置かれ、楽園のように甘く芳醇な香りが漂っている。


 さらに、甘いのは香りだけでなく。


 なぜか、彗舜帝は胡座をかいた膝の内に花祝を囲うという、御物忌みの最中とは思えぬような享楽的な態勢を取っておられるのだ。


「あのっ、もうそろそろお放しいただけませんか?」


「うん? このままでは水菓子(果物)が食べにくいか?」


「いえっ! もとより陛下の水菓子をいただくつもりなど毛の先ほどもございませんっ! このような格好では、御物忌み中の帝をお守りできないと申し上げているのです!」


「こうしていると、体の内がとても清々しいのだ。邪気や物の怪も、今の俺に憑くことはできまい。花祝は龍侍司の務めを立派に果たしているのだぞ?」


 帝の御言葉に、花祝は今から少し前のやり取りを思い返した。


 ❁.*・゚


『穢れや邪気を避けるために物忌みをするのであれば、最も優れた物忌みの方法は、清浄な気を自らに宿すことではないかと思う』


 御帳台の中に花祝を引きずり込んだ帝は、繧繝縁うんげんべりの畳に上がらず板敷の隅で畏まる花祝に、ゆったりと涼やかにそうお声をかけてきた。


『それはそうかもしれませんが……僧侶や陰陽師ならともかく、修行もせずに清浄な気を体に宿すことなどできますでしょうか』


 畏れ多くもいぶかるように花祝が問うた。

 しかし、帝は鷹揚に頷き、端麗な笑みを浮かべなさる。


『実はな、先程のやり取りでそなたの腕を引いたときに、俺の手がそなたの纏う龍袿に触れたのだ。その刹那、俺の体に清浄なる龍の気が流れ込んできたように感じた。先日の宿直とのいでも同じ気の流れを覚えていたのだから間違いない』


龍袿りゅうけいの持つ力が、陛下にも作用いたすということでしょうか』


『龍袿そのものというよりも、龍侍司である花祝の通力つうりきによるものであろうな。俺はそなたの力によって龍の加護を受けることができるのだ。だから──』


 御言葉を切られた帝が、不意に花祝の腕を掴んだ。

 ぐい、とそのまま引き寄せられ、体勢を崩した花祝の両肩を帝が抱き止めなさる。

 そしてそのまま、胡座をかいたご自分の膝の上に花祝を座らせると、羽織っていた緋色ひいろ唐衣からぎぬを脱がせにかかられた。


『ひゃっ!? な、何をなさいますっ!!』


『清浄なる龍の気を取り込むために、そなたの纏う龍袿に触れていたい。唐衣や表着は邪魔でしかないから脱がせるのだ』


 じたばたと藻掻く花祝から器用に唐衣と表着を取り去ると、帝は五衣いつつぎぬの姿となった花祝を後ろからふわりと抱き締められた。


 花祝の纏うひとえも龍袿も、薄い絹織物でできている。

 そして帝がお召になっているのは、長御単ながおんひとえの一枚のみ。

 帝の御身の温もりや固さが肌に明瞭に伝わってきて、花祝は自分の体温がみるみる上昇するのを感じた。


『うむ、やはりこうしていると清浄なる気がおのが内に満ちてくるのを感じる』


 緊張と混乱で固まる花祝の耳元に、唇をお寄せになった帝が満足げに囁かれたのだった。


 ❁.*・゚


 そんなこんなで、女官が果物の皿盛りを運んできたときも、花祝は帝の膝の内に囲われたままで、顔から火が出そうなほど恥ずかしい思いをした。


 このような体勢でなくても龍袿に触れていることはできるだろうに、花祝が幾度となく離れようとしても陛下はお許しにならないのだ。


(まさか酉の刻までこのままでいらっしゃるつもりではないわよね。一体どうしたら陛下の膝の内から抜け出せるかしら……)


 抱き締められた上半身を強ばらせながら必死に考える花祝であったが、その隙をつくかのように────


「龍袿のかさねは、透けた色の重なりがまことに趣き深いな」


 そう仰った帝が、花祝の龍袿の合わせにするりと手を入れられた。

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