三の二

「なんだかどっと疲れたわ……」


 いまだ火照る顔を扇で仰ぎながら花祝が呟くと、小雪が「ええ、本当に」と相槌を打つ。


「龍染司様のあの甘やかさは危険ですわね。私まであてられてしまいましたわ」


「楓くんがすごく親切な人なのはわかるけれど、変に誤解しないようにって自分に言い聞かせるのが大変よ」


「花祝さまは、あの御方のお言葉をそのままお受け取りになってもよろしいのでは? あの眼差しやお言葉からして、龍染司様は花祝さまに少なからぬ好意を寄せていらっしゃるとしか……」


「だめよ、小雪! お願いだから、これ以上けしかけないで! 今はとにかく龍侍司としての務めに集中しなくちゃいけないんだから」


 そう。今の自分には、恋なんてまだ早い。


(いくら楓くんが魅力的な人でも、出会って早々にときめきそうになるなんて、龍侍司としての自覚が足りないわ。もっと気を引き締めなくっちゃ)


 ふう、と息を吐いて扇をたたむ花祝の決意に心打たれたのか、小雪がにじり寄ってきて、花祝の手をしかと握る。


「龍侍司付き女房の私としたことが、花祝さまのお心を惑わすようなことを言いまして申し訳ありませんでしたっ! 花祝さまは帝をお守りし、この国の安寧を保たれる大切な遣わし様。花祝さまのお務めがつつがなく成せますよう、この小雪も微力ながら全力でお支えいたしますわっ」


 涙ぐむ小雪の勢いに気圧されつつも、花祝も小雪の手を握り返す。


「ありがとう。内裏の女官は華やかな反面どこか冷たくて取っ付き難い人が多いけれど、小雪は親しく接してくれるし、宮中のこともよくわかってるからとても頼りにしているの。これからもよろしくね」


「はいっ!」


「そうだ、あなたにお願いがあるの。陰陽寮おんみょうりょうに、彗舜帝の近々の凶日がいつなのか、問い合わせてくれないかしら。陛下の凶日には、また守護に侍らなければいけないでしょう?」


御物忌おんものいみの日にちでしたら、然るべき時に内侍司ないしのつかさから連絡が来るかとは思いますが……かしこまりました! 念のためすぐに確認してまいりますわ!」


 すっくと立ち上がり、鼻息も荒く母屋を出て行こうとした小雪が、はたと立ち止まり振り向いた。


「そう言えば……。花祝さま、昨晩の宿直で本当に帝とは何もございませんでしたの? 先ほど龍染司様の前でもひどく動揺されてたみたいですけど」


「本当に何もないってば!」


「ではまあ、今回はそういうことにしておきます。次の宿直明けの花祝さまのお顔を見るのが楽しみですわね。ふふっ」


 先ほどの反省はあっという間に忘れたような小雪の含み笑いに、花祝は呆れ返って扇で顔を隠し、深いため息を吐いたのだった。


 ❁.*・゚


 そうは言いつつも、女房としての小雪の働きはやはり優秀だ。

 陰陽寮の誰に取り次げばより早く正確な情報を得られるかをわかっているらしく、一刻(三十分)を少し過ぎたあたりで花祝の元へ戻ってきた。


 しかし、それが妙に慌てた様子で、脇息に寄りかかって絵巻を眺めていた花祝は何事かと身を起こした。


「どうしたの? そんなに慌てて」


「花祝さま、大変です! 彗舜帝の凶日ですが、直近は明日のうまの刻より御物忌みに入られるとのことです」


「明日? そんなに急に?」


「本来ならば、帝の凶日については遅くとも三日前には内侍司ないしのつかさ、つまり帝の側仕えの部署より知らせがあるはずなんです。いくら花祝さまが参内したばかりだとは言え、昨晩の宿直の際に何も知らされなかったというのはおかしな話ですわ!」


「内侍司の皆さんもお忙しいでしょうから、きっとうっかり伝え忘れただけよ」


「内侍司に勤める女官達は、才色兼備を誇る人ばかりなんですが、お高くとまって鼻持ちならない人間も多いんです。きっと、花祝さまの参内が面白くなくて、わざと伝えなかったんですわ」


 ひとり憤慨する小雪だが、人を疑ったことのない花祝としては、そう目くじらをたてるようなことだとも思えない。


「明日の御物忌みが今日のうちにわかったんだからいいじゃない。明日大慌てで支度せずにすんだんだから」


「そういう問題ではございません! これからは陰陽寮と密に連絡を取り合うようにして、御物忌みの日にちを聞くようにせねばなりませんわ」


 ぷりぷりと怒りつつも、小雪はてきぱきと明日の守護の準備を始める。


「花祝さま、まだ日が明るいうちに、明日のかさねの色目をお選びくださいませね」


「午の刻からの物忌みということは、清龍殿の昼御座ひのおましに侍ることになるのよね。暗めの色調だとかえって邪気を呼び寄せかねないから、明るめの色目がいいはず」


 龍袿の収められたいくつかの葛籠つづらから花祝が選んだのは、白に淡黄たんこう藤黄とうおう丹色にいろといった暖色の階調グラデーションに深い千歳緑ちとせみどりを刺し色とした五衣いつつぎぬ


 それらを手に取りつつ、花祝はこれらの龍袿を染めた男に思いを馳せた。


さきの龍染司……冨樫様は、この龍袿をどんな思いで染めたのかしら。やっぱり菖蒲様を思う一心で、過酷な残零集めに赴いたのかしら)


 仄かに輝く色は、五色の龍の鱗の色に、人の思いの純粋さが重ねられたからこその美しさではなかろうか。

 そんな風に考えつつ、先ほどの楓の言葉を思い出す。


(楓くんは、私のために龍袿を染めてくれると言ってたわよね。それが龍染司の務めであるからだとしても、私のことを思って染めてくれるなら、やっぱり嬉しいな)


 滑らかな生地を指先でそっと撫でながら、花祝は清らなる谷へ赴く楓の無事を祈った。

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