三、龍侍司の初めて味わひし甘き果実に心動かさるること

三の一

 龍染司りゅうぜんのつかさである長谷部はせべかえでが襲芳殿を訪れたのは、花祝が宿直明けの睡眠から目覚めて遅い朝食を摂り、体を清め、普段着となる綾織のうちきを着て髪を梳き終えてからのことだった。


 花祝が十分に休息を取り、身支度を整えられる時間を勘案して、花祝付き女房の小雪が楓の訪問時間を調整してくれたのだろう。


 小雪の説明によると、帝と未成年の皇族以外の男性は、内裏に住むことができない。

 そのため、帝の守護を司る遣わしであっても、女の龍侍司のみが内裏に襲芳殿という住まいを賜り、男の龍染司は宮中の衣服製作を司る縫殿寮ぬいどのりょう大内裏だいだいりの外から通勤することになる。


 そうした事情から、龍侍司と龍染司が面会する際には、襲芳殿に住む龍侍司を龍染司が訪ねる形式をとるのが常であるということだった。


 星の数ほど存在していそうな宮中の礼儀や常識を知らない花祝にとって、小雪はやはり心強い存在である。


 ……たとえ、花祝と楓の対面を几帳の陰からこっそり覗き見しつつ、にまにまとわざとらしい視線を花祝に寄越してくるとしても。


 ❁.*・゚


「昨晩の宿直お疲れ様でした」


 楓が癒し系の柔和な笑みを浮かべる。


「楓くんの方もお疲れ様でした」


夜御殿よんのおとどはどうだった? “まがもの” は出てきたの?」


紫黒しこくの邪気が三度ほど入り込んできたけれど、かさねと破邪の刀のおかげで簡単に祓えたわ。楓くんの方は?」


弘徽殿こきでんの西に小さな物の怪が出たって話を聞いたけれど、陰陽師が祓ったみたいで、僕の出番はなかったよ」


「妖狐とか、幻を見せるようなあやかしとかは出なかった?」


「妖狐? 昨晩は出てないと思うけど。夜御殿では何かあったの?」


「うっ、ううんっ! 特に何モッ!? 」


 返答の声が裏返る花祝に、几帳の陰から覗く小雪が鋭い疑いの目を向ける。

 しかし、「そう? ならいいけど」とあっさり引き下がる楓の反応に、上半身をコケッとつんのめらせた。


「じゃあ、先龍侍司様が仰っていた、“邪気や物の怪より恐ろしい存在” も現れなかったってことだね」


「現れなかったというか、むしろ常にそこにおわすというか……」


「ん? 何か言った?」


「ううん! 何でもなイ! 心配してくれてありがとう」


 動揺しまくりの花祝が精一杯の笑みを見せると、甘く整った楓の顔も柔らかに綻ぶ。


「何はともあれ、宿直明けの花祝ちゃんが元気そうでよかったよ。昨日伝えたとおり、僕は明日から先龍染司様と一緒に清らなる谷へ行ってくる。十日ほどは戻らないから君の顔を見ておきたかったんだ」


 楓の言葉に、花祝の頬が熱くなる。


(顔を見ておきたかったなんて、楓くんたら、まるで想い人に言うようなことをさらりと言っちゃうんだから……! いくら新米の龍侍司を心配してくれてるからとは言え、そんな甘い笑顔で言われたら勘違いしちゃいそうだよ)


 にまにまとした小雪の視線には気づくことなく、花祝は気を引き締めるようにコホンと咳払いをして居住まいを正した。


「着任して三日で清らなる谷へ入るなんて大変だね。京からは遠いんでしょう?」


「冨樫様の話では、東の山に入って一日で着くこともあれば、三日かかることもあるそうだよ。代わりの儀で僕が受け継いだ “開谷かいこくの刀” が示す光の方角へとひたすら歩くらしい。でも、五色の龍をこの目で見られると思うと、今からわくわくするよ!」


「五色の龍に会えるのは、清らなる谷に入ることを許された男の遣わしだけだものね! 鱗の欠片で染めた龍袿りゅうけいでさえあれほど美しい色なんですもの。本物の龍はさぞ神々しくて美しいんでしょうね」


「花祝ちゃん」


 瞳を輝かせる花祝を柔らかな眼差しでじっと見つめる楓が、温かな声で名を呼ぶ。


「僕が清らなる谷に入るのは、他の誰でもない、花祝ちゃんのためだよ。これからは僕が君を美しく染め上げていけるんだと思うととても楽しみで、残零集めの苦労も厭わないとさえ思えるんだ」


 ぼんっ! と音を立てそうなくらいに、花祝の顔に熱が一気に集まる。

 楓の言葉を都合よく解釈せぬようにと心に言い聞かせてきた花祝であったが、さすがにこの甘さには耐えかねた。


 几帳の後ろから、「くあぁっ!」と小雪ののたうち回る声が聞こえてくる。


「花祝ちゃん? どうかした?」


「う……ん、ちょっと顔が火照りすぎて、目眩までしてきたような……」


「あっ、ごめんごめん! 宿直明けで疲れが残ってるところに長居しちゃったね。谷から戻ったら、真っ先に襲芳殿に寄らせてもらうよ。花祝ちゃんもお仕事頑張ってね」


「ありがとう……。楓くんも、くれぐれも気をつけて」


 親しげな笑みを花祝に向けると、立ち上がった楓は直衣のうしの裾を整えて襲芳殿を出て行った。

 その後ろ姿を見送って、花祝はふうっと大きく息を吐きつつ扇で仰ぐ。

 几帳の後ろから這うように出てきた小雪と顔を見合わせると、二人でもう一度息を吐いた。


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