二の四

「────っ!?」


 唇と唇が柔らかに触れ合う、初めての感触。

 花祝の混乱が極まる間に、襲の合わせにしなやかな指が滑り込んできそうになり。


 真っ白になった花祝の頭に、ぷつん、と何かが切れた音が響いた。


「やめてよ!! この陛下ッ!!」


 バチン! と音がした直後、手のひらからじんじんと伝わる痛みで、花祝ははっと我に返った。


「つぅ……。思いきり叩きおって」


「も……申し訳ありませんっっ! 今、氷かお薬を──」


「大袈裟にせずともよい。俺がちとふざけすぎた」


 赤くなった頬をさすりながら、涼やかな笑い声を立てて帝が体をお離しになる。

 混乱のまま、反射的に居住まいを正して胸元を掻き合せる花祝を、帝は可笑しそうに見つめておられた。


「叩かれたのは生まれて初めてだが、うら若き乙女に頬を叩かれるのは、なかなか妙趣に富むものだな」


「ふぇっ!?」


「これまで俺が寵して喜ばなかった女はいなかったが、それにもちと興冷めしていたところであった。これからそなたが侍る夜は面白くなりそうだ」


「だっ、だからって、迫るのはおやめくださいっ」


「ところで、そなたの叫んでいた “えろ陛下” とはどういう意味だ?」


「そ、それは……っ」


“エロ” とは、坂東のお国言葉で、色好みの人物を指す。

 帝に向かってそんな暴言を吐いたなどとは口が裂けても言えなくて、返答に窮した花祝のこめかみを冷や汗がつたった。


「まあ、“えろ陛下” でも何でもよい。いくら趣があっても、頬を叩かれるのは一晩に一度で十分だ。今宵の戯れはここまでとしておこう」


 どこまでも典雅な笑みを浮かべた帝がしとねにお戻りになり、大袿おおうちきをお体に掛け直した。


「では、私は帳の外に戻ります。おやすみなさいませ」


 ほっと胸を撫で下ろしつつ、礼をして下がろうとすると、「花祝」と涼やかなお声が呼び止める。


「下がれとは言っておらぬ。俺が寝つくまでここにいてくれ」


 花祝が顔を上げると、彗舜帝の澄んだ藍鉄の瞳が再び憂いを帯びている。


 戸惑いつつも膝を進めて帝の御許おもとに近づくと、陛下のしなやかな指が花祝の指先を捉えた。


 思わず身を竦めたが、此度はそれ以上のお戯れをなさるつもりはないらしい。

 手をつながれたまま、花祝は黙って帝の傍らに座った。


「花祝」


「はい」


「そなたの故郷、坂東ばんどうはどのようなところであるか」


「そうですね……。都のような煌びやかさからは程遠いですし、洗練されたみやこびととはかけ離れた粗野な者が多いですね。でも──」


「でも?」


「何ていうか、自然豊かで人情味に溢れていて、皆がのびのびと生きられる平和なところです」


「のびのびとして平和な場所か……」


「遠いし田舎ですけど、とっても良いところですよ。いつか陛下も行幸にいらしてくださいね!」


「…………」


 帝はすう、と深く息を吸い込んだのち、穏やかな寝息を立て始めた。

 花祝の指先をしっかりと握っていた指が緩む。

 そうっと指を引き抜き、帳の外に下がろうとしたが、四隅に置かれた御殿油おんたなぶらに仄かに浮かび上がる陛下の端麗な顔容かんばせに視線を縫いとめられた。


(薄闇の中でも輝いて見えるくらい、麗しいお顔立ちよね……)


 畏れ多いと思いつつも、弓形ゆみなりに整った眉、優美で繊細な睫毛、涼やかに通る鼻筋、白く滑らかな頬を眺めて──


 微かに緩んだ薄い唇が目に止まった途端、花京の頬がみるみる熱くなった。


(そっ、そうだった!! ここまでいっぱいいっぱい過ぎて忘れてたけど、私、陛下と口づけを────!?)


 遣わしの自分には色恋は無縁のもの、いや寧ろ遠ざけるべきものとしていたために、花祝にはこれまで恋人はおろか、想いを寄せる相手すらいなかった。


 当然、口づけしたことだってなかったのに、あろうことか、初めての相手が帝になるなど、今の今まで思いもよらぬことだった。


 思い返すと同時に、あの柔らかな感触までもが唇によみがえるが、あまりに唐突すぎたせいで、あれがうつつの出来事であったのかとどうにもあやふやになる。


(うん……。そうだ、そうよね。こんなに清らかで麗しい寝顔の御方が “エロ陛下” であるはずがないわ。あれはきっと内裏に忍び込んだ妖狐が見せたまぼろしよ。危うく騙されるところだったわ)


 そう結論づけた花祝は、音を立てないようにそっと帳の外へ出ると、妖狐を祓おうと破邪の刀を握りしめて出現を待った。


 しかし、この夜は紫黒しこくの邪気が三度ほど訪れた他はあやかし、物の怪の類は現れず、夜明けと共に花祝の宿直は終わり、まだお休みになられている帝の御前を下がったのだった。

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