ニの三

 龍の遣わしと言えど、花祝も桜津国の民の一人。


 帝が “傍へ来い” と仰せならば、いくら畏れ多いとは言え、そのお言葉に背くことなど出来るはずがない。


「しっ、失礼いたしマス……」


 声が裏返ってしまったことも気づかぬほどに緊張した花祝は、ぎくしゃくと膝を進め、そっと帳をたくし上げた。


 御殿油おんとなぶらに浮かび上がるのは、白い絹の単衣ひとえをお召しになり、濃二藍こきふたあい大袿おおうちきを肩に掛けてゆったりと脇息にもたれかかる、彗舜帝の御姿であった。


 御声色に違わず涼やかで艶やかなその御姿に、花祝の動悸はさらに早まり、顔に火鉢をあてられたように熱くなる。


 夜御殿よんのおとどに入ってから仄かに感じていた薫物たきもの荷葉かようであろう。

 控えめに焚きしめられているが、その清涼で幽玄な香りは陛下の高貴な佇まいをさらに際立たせていた。


 扇で顔を隠すわけにもいかずに俯くと、花祝の反応を楽しむように微かな笑い声を零した帝が「もっと近くに」とお呼びになった。


 もはや返事も声にならず、俯いたままおずおずと膝を進めると、前かがみになられた帝が花祝の顔をのぞき込む。


 あまりに端麗な顔容かんばせがいきなり近づいてきて、花祝は「ひゃっ!?」と思わず仰け反った。


「くくっ。なかなか楽しい反応をするな」


「と、とんだ御無礼をいたしまして申し訳ございません!」


「よいよい。そういう顔が見たくてわざとやったのだからな」


「へ……っ?」


「うむ、昼間見た時にもなかなか愛らしい顔立ちの娘だと思ったが、夜目ではそれなりに艶っぽくもある。まずまずの “当たり” と言えような」


「は……?」


 紫辰殿で拝見した清らで凛々しい雰囲気とは異なり、夜御殿よんのおとどで寛ぐ帝は人の心を惑わす妖狐よりも妖艶に見える。


 そのせいか、昼の印象とはかなりの隔たりがあるように見えて、花祝はお言葉の意を汲み取りかねて首を傾げた。


「新しき龍侍司よ、そなたは名を何と申すのか」


「か、花祝と申します」


「ふむ、良い名だ。ではこれからは俺も花祝と呼ぼう」


(あれ? 今、陛下、ご自分のことを “俺” って仰らなかった?)


さきの龍侍司は女盛りで美しかったが、聞けば先龍染司とと言うではないか。さすがの俺も遊びで手を出すわけにはいかず、口惜しい思いをした」


(女盛り? 遊び?? 手を出す???)


「だが、十七で坂東から出てきたばかりという花祝ならば、誰に憚ることなく俺と戯れることができような」


「戯れって……えっ、ちょ、ちょっとお待ちをーっっ!?」


 彗舜帝がおもむろに花祝の手を取り、口角を引き上げた形よい唇に押し当てた。

 驚いた花祝は相手が帝であることも忘れ、叫びながら思いきり手を引いた。


「なっ、何をなさるんですかっ!?」


「男女が塗籠ぬりごめ(寝室)におるなら、することは決まっておろう? 春の夜はまだ長い。肌寄せ合いつつゆっくりとその趣きに浸ろうではないか」


 座したままで後ずさる花祝と、小兎を追い詰める狼のごとく楽しげに間合いを詰める帝。


「へ、陛下はお妃をお迎えにならない、清廉潔白な御方と聞いておりましたが!?」


「妃を迎えぬことと清廉潔白なのとは別物だろう? 妃を迎えぬのは、単に煩わしいからだ。后妃を娶るつもりはないが、男女のむつごとが嫌いなわけではない。というかむしろ大好きだ」


 涼やかなお声できっぱりと言い切る帝が超絶的に清々しい。

 普通の女官ならばこの爽やかさと艶っぽさに圧されて思わず身を委ねてしまうところだろうが、花祝の場合は遣わしの血がそれを許さぬのか、貞操の危機を感じてじりじりと後ずさった。


 しかし。


「あっ……!」


 動かした足で袿の裾を踏んでしまい、体勢を崩した花祝が床に倒れ込む。

 すぐに起き上がろうとするも、幾重にもなった襲が重く、わたわたしている間に帝が迫ってきた。


「陛下っ!? 陛下ならご存知のはず! 龍の遣わしは、純潔を失えば通力をも失います! 一夜のお戯れで、陛下の御身をお守りできなくなるのですよ!?」


「俺の身など、どうなろうが構わん」


「何を仰るのです!? 陛下の御身に何かあったら、この桜花京が、桜津国が乱れてしまいます!」


 襲の合わせを手で押さえつつ、必死で声を上げる花祝の眼前で、彗舜帝の藍鉄色の瞳が一瞬憂いを帯びた。


「この国が乱れる、か……。むしろそうなった方が良いのかもしれぬ」


「……えっ?」


(帝ともあろう御方が、どうしてそんなことを──)


 呆然と藍鉄の瞳を見つめた花祝に、長くしなやかな指が伸ばされる。

 顎をそっと掴まれて上を向かされた花祝の唇に、寂しげな形に歪んだ唇が重ねられた。



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