二の二

 小雪の気遣いの甲斐もなく、燭台を手にした先導の女官に続く花祝の心臓は、先ほどからうるさいくらいにバクバクと鳴り響いていた。


 清龍殿の東北、御溝水 《みかわみず》の落ちる滝口にある詰所では、楓が待機しているはずだ。


 それを思うと心強く、祓いに対しての恐怖心は薄れるのだが、花祝の心臓をうるさくするのはそれとは別のことだ。


(あの麗しの極みにおられる陛下のお傍で宿直とのいするなんて、一晩どうやって過ごせばいいのかしら)


 宿直中の仮眠は許されているものの、かの端麗寛雅な帝の御気色みけしきをお傍に感じていたら、一睡もできないのではないだろうか。


 それに、一晩中はべるとなると、陛下とお言葉を交わすこともあるかもしれない。

 雲の上におわすような御方を前に、緊張のあまり失礼なことを口走ってしまわないだろうか。


「こちらが陛下のご寝所、夜御殿よんのおとど。陛下はすでに中におわします」


 花祝があれこれと気を揉んでいるうちに、清龍殿の奥まった場所にある、豪華な装飾の施された枢戸くるるどの前に案内された。


「私ども帝付きの女房は、こちらの二間ふたまにて待機しております。何かございましたらいつでもお声をお掛けください」


「はっ、はい」


 女官に一礼され、花祝は鼓動の乱れを整える暇もなく夜御殿に入ることに。


「龍侍司様のご到着にございます」


 枢戸が開けられ、恐る恐る足を踏み入れると、中央に掛けられたとばりの向こうに御殿油おんとなぶら(燈台の明かり)がゆらめき、ゆったりと座した姿で寛いでおられる影が見える。


「龍侍司にございます。祓いのため、今宵こちらに侍らせていただきます」


「うむ。よろしく頼む」


 昼間と同じ涼やかなお声でお言葉を賜ると、花祝は帳の手前に敷かれた畳に座り、帝に聞こえないよう小さく息を吐いた。


 陛下は何か書物を読んでおられるのだろう。

 時折ぱらり、ぱらり、とゆっくり紙をめくる静かな音が聞こえてくる。

 御殿油の灯心が、ジジッと微かな音を立てる。


 静寂の中で聞こえてしまいそうな鼓動をなんとか鎮めようと、花祝は懐からそっと短刀を取り出して眺めた。


“代わりの儀” で、菖蒲から受け継いだ “破邪の刀” 。


“遣わし” として生まれた花祝がこの懐刀ふところがたなに触れるだけで、かねてより自分の物であったかのように手に馴染み、心が落ち着いてくるから不思議だ。


 何とはなしに “破邪の刀” の柄に巻かれた錦の織り目を指先で撫でていた、その時。


(来た──!)


 微かな気の淀みを感じて顔を上げると、紫黒しこくの色に澱んだ邪気が、ゆるりするりと戸の隙間から入り込んできた。


 内裏のけがれに引き寄せられ、結界の僅かな綻びから入り込んできた邪気。

 こうした邪気が人に憑くと、人の心を乱したり、病を引き起こしたりすると言われている。


 龍侍司として、その力を使うべき時がとうとうやって来た。

 にわかに体がこわばるが、小さく細く息を吐き、花祝は己の胸に語りかける。


(大丈夫よ、花祝。これまで幾度となく練習してきた通りにやればいいの。落ち着いて、しっかりと陛下をお守りするのよ)


 握りしめた破邪の刀の鞘を抜くと、祓いの構えを取り、ゆるゆると迫り来る邪気をしかと見据える。


「清らなる龍よ、我に破邪の力を遣わし給え」


 遣わしの呪文を唱えると、花祝の纏うかさねがいっそう輝きを増した。


 襲から出ずる光は花祝の頭上に立ち昇り、ぼんやりと小さき龍の輪郭を成した。

 紫黒の邪気を祓い、穢れを浄める力を授けしは、五色の龍のうち白龍である。


 白龍の気が顕現すると、紫黒の邪気はそれを覆わんとするかのように、花祝の頭上にぶわりと広がった。


ッ!」


 構えた破邪の刀で上空をひと裂き。

 すると、その動きに呼応した白龍の気が口を広げ、大きく身をくねらせて紫黒の邪気を食いちぎり飲み込んだ。


 じゅっという微かな音をさせ、引き寄せた邪気が霧散する。


(祓えた……!)


 初めての祓いをつつがなくこなせたことで、花祝はふう、と安堵の息を零した。


 この世界では、穢れに引き寄せられて邪気や物の怪といった “まがもの” が現れるのはよくあることである。

 遣わしの花祝は生まれながらにそうした “禍もの" が見えるため、ちょっとした邪気や物の怪ならば故郷の坂東で幾度も目にしてきた。


 それゆえ今の紫黒の邪気にも落ち着いて対処できたわけであるが、それでも帝をお守りするという使命を背負うと、必要以上に緊張してしまう。


 破邪の刀を鞘におさめると、白龍の気は花祝の纏う襲に吸い込まれていき、龍袿の輝きが落ち着きを取り戻した。


「……何か入ってきおったのか?」


 帳の向こうにおわす彗舜帝からお声がかかった。


「はい。紫黒の邪気が入り込みましたため、ただ今祓いました」


「そうか。ご苦労であった。都は人の多く住み、富と権力の集まるところ。千年に渡る人の恨みつらみが積もっておるため、邪気や物の怪が生まれやすいのだ。これからもそなたを頼りにしておるぞ」


「はい」


 ご自身の寝所でお寛ぎなさっているせいか、帝のお声は代わりの儀で拝聴した時よりもだいぶ柔らかい。

 けれどもその涼やかで艶っぽい声色はやはり耳に心地よく、陛下のお声を間近に聞けるだけで役得であると思える。


 しばし後。

 ばたり、と書物を閉じる音がして、再び静寂が訪れた。


(陛下はお休みになられるのね。もしまた “禍もの” が来ても、なるべく音を立てないように祓わなくっちゃ)


 “禍もの” が出やすいのはうしの刻。

 それまでまだ時間があるため、花祝も少し休もうと、脇息きょうそくにもたれかかって目を閉じる。


(故郷の家族、乳母の琴、乳兄妹たちはどうしているかしら……。空良そらの元服が近いから、皆きっと準備に忙しくしてるわね)


 桜花京から遠く離れた故郷に思いを馳せ、親しき者達の顔を思い浮かべる。

 弟の烏帽子着えぼしぎ(元服式)に参列することが出来ないことを少し残念に思い、小さくため息をついた。


「……眠れぬのか?」


 帳の向こうから涼やかな声がかかり、花祝は慌てて居住まいを正した。


「あっ、も、申し訳ございません」


「気にするな。私も寝つけずにいたところだ」


 臥しておられた人影が、ゆっくりと起き上がる。


「……帳に隔たれたまま言葉を交わすのも趣がないな。龍侍司よ、こちらへ」


「……は、はい?」


「帳をくぐり、こちらに来いと言うておるのだ。寝つけぬ者同士、春の夜の趣深さを味わいながら、ゆっくり話をしようではないか」


(え……え……っ、ええぇーーー!!?)


 彗舜帝からの思わぬ誘いに、花祝は心の臓が口から飛び出そうなくらいに驚いた。

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