一の六

「冨樫様は、龍染司の役をお降りになった後に妻を娶られると仰ってましたが、もしや──」


 合点がいったような楓の言葉に、冨樫と菖蒲の顔がみるみる赤く染まった。


「そ、そういうことだ」

「そ、そういうことです」


「え? どういうことです?」


 話が飲み込めず、きょとんとする花祝に、楓がそっと耳打ちする。


「冨樫様と菖蒲様は、役を解かれて晴れて夫婦めおとになるということですよ」


「え……ええええええっ!!?」


 仰け反るほどに驚いた花祝を前にして、熊のような風貌の冨樫が照れたように頭をがしがしと掻いた。


「いや、まあ、その……。十二年も一緒に仕事してるとな、お互いに情がわいてくるというか……」


「この歳で内裏を出たところで、今さら嫁ぎ先も見つからないでしょう? そうぼやいたら、俺のところへ来ないかって、彼が……」


 普段は凛然としている菖蒲までもじもじとしだして、最後は扇で顔を隠してしまう始末。


 あんぐりと口を開けていた花祝にも、そんな二人を見て幸せな気持ちがみるみるとわいてきた。


「素敵……っ! お二人ともおめでとうございます! 末永くお幸せに!」


 楓と二人で祝福の言葉を贈ると、冨樫と菖蒲は照れつつも嬉しそうに微笑みあった。


(遣わしである以上、結婚は諦めなければならないとばかり思っていたけれど……こんな風に幸せを掴むこともできるのね)


 二人を見て、花祝の心に小さな希望の火が灯る。


 遣わしとして生まれたものが龍から授けられた通力は、穢れなき清らかな身体でのみ発揮される。


 つまりそれは、龍染司や龍侍司としての務めを全うするためには、その役を降りるまで純潔を守り通さねばならないことを意味するのだ。


 十七で龍侍司となり、十二年の任期を終える頃には二十九。

 男女とも二十になる前に結婚するのが一般的なこの国では、完全に婚期を逃してしまうことになる。


 遣わしとして生まれた以上、自分には恋も結婚も無縁だと諦めていた花祝には、務めを無事に果たして幸福を手に入れた菖蒲の未来がきらきらと輝いて見えた。


(私もいつか、誰かとこんな風に寄り添えたらいいな……。龍侍司である間、純潔は守らなければならないけれど、恋しちゃいけないわけではないのだもの)


 そんな風に考えた花祝の視界に、穏やかな笑みをたたえた楓が映る。


(十二年一緒に仕事して情がわいたって冨樫様は仰ったけれど、もしかしたら私たちも──?)


「龍侍司どの、どうなされました?」


「な、なんでもございませんっ! 慣れない十二単を着ているせいか、春だというのに何だか暑くって」


「あら、気分が悪くなっては大変ね。小雪、冷たいお水をご用意してさしあげなさい」


 楓との恋の可能性に思い至った途端に顔が熱くなったのを、花祝は慌てて扇で仰ぎ誤魔化した。


「そういうわけで、私と冨樫様は帝から賜った京の屋敷に移り住むことになりました。冨樫様は引き続き龍染司どのの指導のため内裏へと通いますから、龍侍司どのも何か困ったことがありましたら彼をお訪ねなさい」


 甘く緩んだ空気を引き締めるように、いつもの表情に戻った菖蒲が花祝にそう伝えたところで、渡殿わたどの(渡り廊下)を誰かがこちらへ向かってくる気配がした。


 衣擦れの音は花祝達のすぐ近くで止まり、几帳の向こうから女官の声がした。


「失礼いたします。先ほど久慈宮くじのみや様がお隠れあそばしたとのことです」


 その報告に、四人の遣わし達の間ににわかに緊張が走る。


 菖蒲の眼差しに促され、花祝は居住まいを正して女官に返事をした。


「承知いたしました。では、今宵の宿直とのいの支度を整えます」


「よろしくお願いいたします」


 久慈宮というのは、彗舜帝の大叔父に当たる御方であり、昨年から重い病を患っていたことは花祝も知っている。


 皇族が亡くなった時は、内裏に穢れが出るとして、龍侍司は帝の寝室である夜御殿よんのおとどに一晩侍り、穢れに引き寄せられてくる邪気や物の怪を祓うことになっている。


 龍侍司となったその日に舞い込んだ初仕事に、花祝の口元も再び固く引き結ばれた。


「では、今宵の準備もあることですし、私たちはこれにておいとまいたします」


「は、はいっ! 永きに渡るおつとめ、本当にお疲れ様でございました」


 襲芳殿しゅうほうでんは内裏に常駐する龍侍司の居住区として用意された建物で、今日からは花祝がここの主となる。


 襲芳殿を辞す冨樫と菖蒲を花祝と楓の二人が見送る際、菖蒲が何かを思い出したように振り返った。


「夜御殿の宿直とのいですれけど……。龍侍司どのは、くれぐれもご注意なさいませね」


「え? あっ、はい。邪気や物の怪にはもちろん十分気をつけます!」


「いえ、そうではなくてね……」


 菖蒲が少し困ったように苦笑いを浮かべる。


「ある意味、邪気や物の怪よりも恐ろしい方でいらっしゃいますからね」


「恐ろしい方……? 一体どなたのことを──」


「いけないいけない。私ったら、肩の荷が降りたせいで口まで軽くなってしまったみたい」


 いたずらっぽい笑みを浮かべた口元を扇で覆い隠すと、菖蒲は冨樫の後に続き襲芳殿を出ていった。





(一、 遣わしの女、新しき龍侍司となりて今上帝に目通りしけること おわり)

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