死神の招いた哲学的ゾンビ

 目覚まし時計の音がけたたましく鳴り響く。

 昇りはじめた陽の光が差し込む薄暗いワンルームマンションでは、ベッドの上の布団の山がもぞもぞと動いていた。

 そこから手が伸び、時計を乱暴に叩く。


 布団から這い出してきたのは死神だった。

 半分寝ぼけたまなざしで時計の盤面を眺める。

 出る時間にはまだ早い。

 秋も終わりに差し掛かった朝は少々寒い。

 ひとまずガスヒーターの電源を入れる。

 それからとりあえず、BGM代わりにテレビを点けてトイレに行く。

 手を洗うと、今度は台所へと行き買い置きのパンを探りに行った。

 ポットのお湯でインスタントコーヒーを淹れ、先日買ったままで残っていた菓子パンをかじる。


 朝のニュースでは完全記憶能力剤『メモリア』の高校、大学受験での使用の是非について、コメンテーターが持論を捲し立てていた。

 食べ終えると今度は洗面所に向かい、歯を磨いて髭を剃った。

 鏡を見て確認する。

 そこに映るのはまるで複数の顔写真を合成したような、取り立てて特徴のない男の顔だった。

 剃り残しが無いか確認し終えると、男は部屋着を脱ぎ捨て服を着替えた。

 姿見に目をやり身だしなみを整える。

 朝の天気予報が終わる頃には、男は身支度を済ませていた。

 上着を羽織って鞄を手に取る。


 ああ、今日も一日が始まる。

 男はそう内心吐き捨てると、玄関のドアを開けた。


 

 かつて男は死神であった。

 死者の国である彼岸に住み、生者の住む此岸に降りては人間を死へといざない、その魂を収穫する。それが死神である。

 彼もまたそんな死神の一人として、のらりくらりと日々の生活を送っていた。

 そのような彼にも一つだけ、他の死神たちと違う点があった。

 彼は死神としては、おおよそふさわしくない感性を持っていた。

 端的に言うと、生きた人間に興味を持っていたのだ。

 人を欺き死へと誘うため、此岸に降りた死神はたびたび人の格好に化けることがある。

 しかし彼だけは死神である自分の立場を忘れて、人に化けては街を歩くのを好んだ。

 これは人間にとっては牛の皮を被って牧場に紛れ込むような奇行だ。

 当然同僚の死神たちは、彼のそんな行動に眉を寄せていたが、彼はそんなことなどお構いなしと言ったふうに、人間と触れ合っていた。


 そんな性分のために、そのうちに彼は恋をしてしまった。

 相手は人間の少女だった。

 彼は人に化け、少女と共に暮らした。

 死神としての長い一生の中で、彼が真に幸せだったのは、その数年だけだったであろう。

 しばらくして、彼のもとに仲の良かった同僚が現れた。

 若くして腕の立つ薬師であった少女が、他の死神に狙われている。と、同僚は彼に告げた。

 確かに注視してみると、彼岸に住むものが放つ特有の気配がわずか、彼女から放たれていることに感づいた。

 悩んだ末に、彼は行動に出た。


 彼はその気配の元である死神を探しだし、殺してしまった。

 少女に分かれの言葉も言えぬまま、彼はすぐに捕縛された。

 同族殺しの罪は重く、そしてそれ以上に裁判は長かった。


 「死神の本分を忘れた者には相応しい」


 そう締めくくられた彼への判決は、人として受肉したうえでの此岸への追放の刑であった。

 願ってもない事に彼は喜び、それから酷く落胆した。

 彼への刑が言い渡されたのは、事件からすでに三百年が過ぎてのことだったから。

 愛する者はすでになく、彼岸に拒まれては死ぬことも許されない。

 彼は仕方なく、人としての生を、それも目的のない生を過ごすこととなった。

 一世一代の恋の末に、彼はもはや何物にも興味を見いだせなくなっていた。



 しばらく歩くと男は職場に着いた。

 住宅街の民家に紛れるようにひっそりと建つ薬局が、彼の働く場所であった。

 そこは近くに数件ある診療所からの処方箋で、薬を出すのが主な業務となっている小さな薬局であった。

 大病の患者用に特別な薬を用意するなんてこともなく、ただ毎日ほとんど決まった薬を出すだけの毎日。

 医療に近しいおかげで食いっぱぐれることはなかったし、安定していると言われればその通りであったが、男の空っぽの心を埋めるものは何もなかった。

 生きる意味を見いだせず、ただ死ねないというだけの仮初の生命に、彼はもう疲れ切っていた。


 そんなある日の休日、男は街で歩いていると、同じ薬学部を卒業した知人に偶然出会った。

 話しかけられて、流れでそのまま喫茶店へ。

 注文した飲み物で唇を濡らすと、知人は口を開いた。

 「それで、少し意見が欲しくてな。学校にいたころ主席だったお前さんなら、何かひらめくんじゃないか?」

 知人は大学卒業後、最近ニュースにもなった製薬会社の研究職に就いていた。

 現在彼が開発中の睡眠薬についてアイデアが欲しいらしい。

 「現役バリバリでやってるお前じゃないんだから、聞いたって意味がないよ」

 「ハハハ、相変わらずつれない奴だなぁ。そう言わずに、なんでもいいから言ってみてくれよ。なんなら素人っぽくてもいい。『メモリア』だって近くのラーメン屋のオッサンからできたもんだしな」

 「……分かった。……そうだなあ……」


 男はふと思い出す。かつて薬師の少女が発見した、珍しい虫の持つ神経伝達物質に作用する化合物のことを。

 もちろんその時、少女は西洋医学など知りもしなかったが、彼女の優れた知性と才覚はそれが何なのかを直感させていた。

 「夢を歩く薬が出来るかも」と、目を輝かせた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。

 男は虫の化合物について、自分が後年独自に調べたことも含めて知人に教えてみた。

 「そんな研究結果は聞いたこともないぞ。どこの大学が出したものなんだ?いやそれよりも、その話は本当か?本当なら、なんでそんなことを知っているんだ?」

 男は問われたが、まあ試してみろよ、とだけ言って返した。

 知人は半分疑うような様子ながら、同時に男の言葉に妙な説得力も感じたようだった。

 その後は他愛のない世間話をして、男と知人は分かれた。


 その一年後、男の勤める薬局に新製品が届けられた。

 知人の勤める製薬会社から発売された薬で、エコーと言う名前だった。


 さらに一か月後。

 かつてメモリアで騒いでいたメディアは、今度はエコーで騒いでいた。

 その理由はエコーの効能にあった。

 エコーは今までの睡眠薬とは違い、眠らない睡眠薬であったのだ。

 服用すると、一日きっかり本人の意識だけを眠らせ、好きな夢を見せる。残った身体は本人の記憶と行動パターンをなぞる『抜け殻』にする。

 それがエコーの効能であった。名前の由来も残響(エコー)のためらしい。


 服用下であっても話しかけられれば本人のように返事をするし、何事かが起きれば本人と同等のリアクションを取る。

 表面上は薬を飲んでいない時と一切の違いが見えず、親しい人でも少し内向的になったかなと感じる程度の差異しかない。

 唯一明確に違うのは、本人の意識がそこにないという一点だけであり、当の本人の意識はというと夢心地のままゆっくりと休むことができる。

 このように忙しい時代にマッチしたためか、すぐさまエコーは普及することとなった。

 特に六個セットのものは飛ぶように売れた。

 気を良くした製薬会社は、効果の長引くものを売るようになった。

 三日、六日、一か月……どんどん薬の効能は増していった。


 その頃からだろうか、元死神の男は世間にある変化が起きていることに気付いた。

 だんだんと、街ゆく人々から生気が失われていることが感じられたのだ。

 理由を探り、すぐに気づく。異変の原因は最近ひそかに発売されたエコーのコピー商品であった。

 その薬はエコーの効能が一生続くというものであった。

 もちろんそんなものが大っぴらに売られるわけもないが、しかし男が調べた時点でも相当数が出回ってしまっているらしかった。

 薬は人の意識だけを眠らせて心地よい夢を見せ、身体だけを寸分たがわずに活動させる。

 それは精神……つまり魂と肉体とのつながりを薄めるということに他ならない。

 そんな状態が一生続くとなると、それはもはや精神の死ではなかろうか……


 「もしかしたら、俺は誰よりも働き者の死神だったのかもしれないな。あるいはあの娘こそが本当の死神だったのかも……」

 男の考えを裏付けるように、最近は死亡率の低さに比べて街中には驚くほど死神が多い。

 通常の場合、魂は物理的な肉体と強く結びつくことで、そうそう簡単には取れないものになっている。

 しかし薬によってその結びつきが弱まった今は、まさに彼ら死神にとっては濡れ手で粟といった状態なのだろう。

 皮肉にも、そのきっかけを作ったのは彼岸を追放された男なのだが……


 ――死神の本分を忘れた者には相応しい。

 自身に言い渡された判決を思い出し、男は道の真ん中で立ち止まり、自嘲気味に笑った。

 それを気にする人間は、いまやどこにもいなかった。

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短編とか 芝下英吾 @Shimoshiba_0914

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