過呼吸

 『生き残ったことへの罪悪感』

 それが彼女の苦しみの原因なんだろう。

 僕はそう思う。


 雨音の響く我が家には、今日も僕の妹のうめき声がこだまする。

 いつ終わるともなく繰り返され続ける、彼女の苦しみにあえぐその声は、地獄の底から響く亡者の鳴き声のようだ。

 今はもうすっかり聞き慣れてしまったけれど、それでも彼女の声は不気味かつ耳障りであることには変わりはない。


 ……また今夜も始まったか。

 内心に覚えてしまう苛立ちに小さなため息を吐くと、僕はスマートフォンから目を放した。奥の扉に視線を送る。

 僕たちが住むのは郊外の一軒家。空き家と老人ばかりのこの町では、音と呼べるものは虫の声と、時折近くの道路を車が通り過ぎる走行音ぐらいのものだ。

 音量を上げたテレビをつけっぱなしにしていたが、それでも妹の声は耳につく。

 その声はまるで誰かを責めているかのように悲痛の色を帯びている。

 我が家の一室からそんな声がずっと聞こえてくるものだから、居心地が良いとはとても言えない。

 座っていた椅子から立ち上がると、僕は妹の部屋へと向かった。


 「アオ、入るよ」と声をかける。

 いつものことながら返事はなく、返ってきたのは重苦しい声だけだった。

 静かに扉を開けるとそこには妹の姿があった。

 げっそりとやせ細った顔が目に入る。彼女はずっと敷かれたままの布団に伏して、泣き苦しんでいた。

 心因性の過呼吸が起こした呼吸困難に、彼女は身を縮こまらせ、その苦しみに、ただ、ただ、耐えている。

 悲痛なうめき声をあげる妹の枕元に座ると、僕は布団の上から彼女の背中のあたりをゆっくりとさすった。

 布団越しに伝わる妹の感触はただただ弱々しく、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。

 「大丈夫か。……また、『溺れたんだな』」

 妹を落ち着かせようと、出来る限り優しく声をかける。

 僕の声に少しばかり正気付いたのだろう。彼女はよろよろと首を動かし僕を見た。

 骨ばった顔つきに精気の薄い瞳はとても二十歳の女の子には見えない。

 生きながらに死んでいる。家族ながら、妹の顔を見るとそう思わずにはいられなかった。

 濁った視線が僕を捉える。彼女はようやく目の前に兄がいると気付いたようだった。

 痙攣を起こしたように、妹の潤いを失った唇が開く。


 「おにい、ごめ……ね。わたし、こんなで」

 「うん。もういいから。大丈夫」

 もう一度、出来る限り優しく身体をさする。そのうちに、また妹の発作が始まった。彼女は苦しみに身をよじらせて、ただ、ただ、震えている。もう僕のことなど眼中にないようだった。

 「……」

 その様子を黙って見届け、それから僕は台所に行って、お湯を沸かした。

 ドリップコーヒーに熱い湯を注ぐ。

 温かい湯気と豆の香ばしい匂い立ち昇り、ほんのひと時、僕からすべてを忘れさせてくれる。

 一口飲み、息をつく。しばしの余韻を楽しみ、それから視線を泳がせる。……しかしそこに、妹の声が割って入る。

 この家にいる限りは、ささやかな休息にさえも、彼女の声が否応なく入り込んでくる。

 溜まった膿を出すように、深く息を吐く。湯気の立つコーヒーの水面には、眉間にしわを寄せて苛立たし気な僕の顔が浮かんでいた。

 その顔を隠すように、コップに口をつける。


 ……妹がああなってしまってから、もう何年がたっただろう。やるせない気持ちがこみ上げてくる。

 台所から居間を見渡す。そこは数年前から時が止まったままだった。必要最低限の家具があるだけであり、おおよそ生活感があるとは言えない。

 指でつつけば倒れるハリボテのようだ。

 ふと、両親が健在だったころのことを思い出す。妹も元気な高校生で、4人家族で仲良く夕飯をとっていた。

 とはいえ、それももう、過去の話にすぎない。

 居間のテーブルの上には妹が好きだった赤い花を挿した花瓶。それと写真立てがひとつ。そこには妹が映っている。

 まぶしい笑顔を見せる妹の姿はいつ見ても愛おしい。

 明るく活発で、優しく献身的で、少しおっちょこちょいなところもあったけど、自慢の妹だった。

 だけども、僕にはもうそんな昔の彼女の姿も、写真が無ければ思い起こすことができない。

 妹は変わってしまった。それは変えようのない事実だった。

 家に響く妹の声を聞いていると、写真の中の彼女の姿こそが偽物だったんじゃないか、とすら思えてくる。

 「……」

 かつての妹の姿に思いを馳せているうちに、いつの間にか、僕の思索は過去へと遡っていった。


 ……妹が今のようになってしまったのは、ひとりの男のためだった。

 都市部で働く僕を追うように家から飛び出した妹は、そこで一人の男に恋をした。

 男は年上で優しく、知的な人間だったそうだ。

 妹からそういった浮いた話を聞いたことはなかったし、きっと初恋だったのだろう。

 それから恋は実って二人は恋人となった。

 その当時のことは今でも憶えている。その頃に僕が住んでいた賃貸マンションで、妹はいつも彼氏のことを嬉しそうに話していたから。

 だが彼女らが付き合ってからほどなくして、男は死んだ。

 夏に遊びに行った海で、彼女らを含む多くの海水浴客が、異例の高波にさらわれてしまったのだ。

 生き残ったのは、彼女とライフジャケットを着せられていた数名の子供たちだけだった。

 その時からだろう。彼女は苦しみを覚えるようになった。


 ……サバイバーズギルトという言葉が頭をよぎる。

 危機的状況を脱して生き延びた人間が『生き残ったこと』に感じる罪悪感を指す言葉だ。

 海での一件以来、妹は自身が生きていることを責めるようになった。そして繰り返し、繰り返し、死ぬべきだった状況を追想して、過呼吸による呼吸困難という形で『溺れる』ようになったのだ。

 苦しみの中に許しを求めている間だけは、彼女の心は平静を保つことが出来たのかもしれない。

 もちろん、治療しようとした。

 でも医者に見せても、薬を飲ませても何も変わらなかった。

 本人が治ることを拒んでいるのでは、と医者は言っていた。きっとそうなのだろうな、と僕も思う。

 なぜなら彼女にとって、苦しみだけが真実から逃れる手段なのだから。


 物思いにふけっていると、玄関からチャイムの音がした。出てみると、そこには最近越してきた家の奥さんがいた。

 この町では珍しいほど若く、三十そこらといった歳で、引っ越しの際に挨拶したときは気のいい感じの人だったが、今は申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ていた。

 「あの、変な時間にごめんなさいね、ウチの子がお宅の家の庭に入り込んでいたみたいなの。お化けが出るとか言って。……なにかイラズラとかはされてなかった?」

 最近は近隣トラブルが裁判沙汰にまでなることも珍しくない。だからだろうか、陽が落ちて間もない薄暗い玄関で、彼女はこちらの様子を窺うように、おどおどした目つきをしていた。

 「いえ、特に何もありませんでしたよ。気にしないでください。でも、前にお話ししたように、妹の身体に障りますので、できればお子さんにその点だけ、しっかりと伝えておいて頂けますか」

 「ええ、そうするわ」

 妹の声を子供たちが噂している事はすでに知っていたし、無用なトラブルはこちらとしてもごめんだったので、穏便に済ませることにした。

 しかしそれでも奥さんは何か思うことがあるらしく、すこし言いよどんだ態度を見せた。

 それが少し気になって僕は問いかけた。

 「どうしました?まだ、何か」

 「いいえ、大したことじゃないんだけれど……この家には妹さんと二人で住んでらっしゃるのよね」

 彼女の不安げな視線が僕の肩を通り過ぎる。

 玄関からすぐの居間が真っ暗なのと、かすかに聞こえる妹の唸り声は流石に不気味に思ったのだろう。

 多少は広い我が家だが、その中で使うのは僕の自室と台所ぐらいなもので、家全体としては真っ暗と言ってもいい。

 おまけに妹の苦しそうな唸り声。

 僕たちの家はおそらく、知らぬ人の目には幽霊屋敷にでも映るのだろう。


 「ええ。両親は早いうちに死んだので、それ以来二人で住んでいます。それが何か?」

 「あのね、気を悪くしないでほしいんだけど、あの子が男の人の叫び声を聞いたて言いうのよ」

 「男の叫び声、ですか」

 「ええ。誰なのかわからないけど、苦しそうだったって……」

 ああ、妹の声なんだろうな。と僕は思った。

 彼女のうめき声は酷く掠れていて、もはや女性のものとも判別がつかない状態なのだ。

 聞き慣れぬ人が耳にすれば、異常な男の声と思ってしまうのも無理からぬことだろう。

 あるいは……と考えて、そこでやめる。

 たとえ未練があろうとも、幽霊などという存在はありえないからだ。

 心配が顔に浮かんでいる奥さんに、こちらも済まないといった顔を返す。


 「ええと、実は妹は心の病気なので、息子さんが聞いたその声は、おそらく妹のものだと思います。……すみません、怖い思いをさせてしまって」

 「あっ……そう、でしたの」と、奥さんは驚きと困惑の混じった表情を見せた。

 周りの人には妹について「病床に伏している」とだけ説明していたので、この返事は意外だったのだろう。

 「ええと、ごめんなさいね。そういう病気の人のお世話をしているだなんて、知らなくて……」

 奥さんは申し訳なさそうな顔をしていたが、僕としては内心はほっとした。

 今の世の中でも、心を病んだ人を異常者だと決めつけてかかる人間は、まだまだ少なくない。

 近隣の人に理解があって良かったと思った。

 「私も親戚のひとりが躁うつ病なのよ。……今みたいになんでもない時ならいいけど、一度スイッチが入ったら……一緒にいる人も大変でしょう」

 「もう慣れましたよ」と、はにかんで返す。奥さんの表情も少し晴れた。

 「そう。……それじゃあ、今日はこれで。妹さんの病気、早く治るといいわね」

 「そうですね。ありがとうございます」

 彼女を見送ると、僕は扉を閉めて家の中へと戻った。


 それからどれほどの時間が経っただろうか。

 数時間が過ぎたようにも思えたが、時計を見ると三十分しか過ぎていない。

 何をするでもなく自室の椅子に腰かけ、僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。

 小雨のあたる窓に、少し遠くにある都市部の夜景がぼんやりとにじむ。

 ……男の声。

 先ほどの奥さんの言葉が脳裏をよぎる。

 僕は幽霊のような常識の埒外のものを信じる性分ではなかったけれど、同時に人は結局見たいものしか見ないということも知っていた。

 幽霊や妖怪といった類いのものは実在しない。しかし見る人によっては存在し得るものだ。

 もしも男の霊魂が憑いているのだと妹が信じきっているのだとしたら……

 彼女にとって年上の彼氏はいまだ存在するのかもしれない。

 それならば形だけでもお祓いを受けさせ、男の魂が成仏したと本人に納得させることが出来れば、あるいは彼女の治療になるのではないだろうか……

 とりとめもなく、そんなことを考える。

 その間にも、妹の声は続く。その声はまるで僕を責めているかのようにさえ聞こえてしまう。

 だが僕には、今の妹にしてやれることは何もない。

 唯一出来ることがあるとすれば、それは時折訪れる彼女が正気付いた時間に、身の回りの世話をしてやることだけだろう。


 部屋に持ってきていた、飲み残しの冷めたコーヒーに口をつける。

 それからまたしばらくして、ふと気が付くと、外の雨音が小さくなっていた。

 放心しているうちに、どうやら雨脚が弱まり始めたようだ。

 時計を見ると七時に近い。まだ近くのスーパーマーケットも開いている。

 買い物に行こうかな、と立ち上がると、スマートフォンから通知音が鳴った。

 画面を見るとメッセージが届いていた。友人からの食事の誘いだった。

 調子のいい文面。最後を飾る「お前もたまには息抜きしろよ」という言葉にどうしようもない安堵を感じた。

 友人たちは僕の事情を知っている。それでも変わったところを見せずに、時々こうして僕を誘い出してくれる。

 介護する側の僕にも息抜きが必要だと、気遣ってくれているのだろう。

 確かに息の詰まる家の中にずっと篭っていれば、心身ともに消耗してしまうのは事実であり、外の空気を吸う機会は必要だった。

 とはいえ妹を1人にはしておけない。……その一方、実のところ彼女から離れたい気持ちもあった。

 そこで僕は部屋を出て、妹の部屋の前に立った。


 「アオ、大丈夫か?」

 と、扉越しに声をかけるも、彼女に届いてはいないのだろう。今ではうめきとすすり泣きが混じった声が聞こえてくるばかりだ。

 一旦こうなってしまっては、戻るまでにかなり時間がかかる。

 そこで僕はようやく踏ん切りがついた。

 「ちょっと出かけてくるけど、すぐに帰ってくるからな。欲しいものは何かあるか?」

 返事が無いことなど分かり切っているのに、つい問いかけてしまう。

 それからばつが悪くなって、僕は逃げるように家を出た。


 駅へと歩く道中、少しずつ増えていく人影と共に、立ち並ぶ建物も階を増していく。

 そこでふと足を止めた。

 近くのビルに目をやる。

 そこは妹が自殺を図った雑居ビルだった。

 妹が恋人を亡くしてからほどなく、僕は仕事を在宅のものに変えて、妹と同居する形で暮らしていた。

 兄妹以外に頼れる親類もいなく、周辺の病院の都合から、入院措置もとれなかったためだ。

 慣れぬ生活ではあったが、それでも最初のうちはなんとか順調に過ごすことができた。

 妹はあてがった一室に篭ってはいたが、まだ普通に会話することも出来たし、今のように酷く痩せてはおらず、疲れた顔ながらも時折笑顔を見せることもあった。

 ……だから僕は安心してしまっていたのかもしれない。これから少しずつ時間が解決すると、僕は半ばそう信じていた。

 だが実際は僕の見えないところで、彼女の心はじわじわと削れていた。

 それはある日のことだった。

 彼女は「行ってくる」とだけ言い残して家を出た。

 突然のことに僕は驚いたが、外に出られるだけ妹が回復したことを嬉しく思った。 しかし同時に、彼女の落とす陰にどこか不審も感じた。

 暗く悲壮な覚悟がちらりと顔を覗かせている。そんな気がしてならない。

 尾を引くような彼女の影は、僕の不安感をくすぐるには十分だった。

 あわてて家を飛び出し妹の後を追う。どこにいるのか見当もつかなかったが、つい先日に妹が近くのビルの話をしていたのを思い出し、そこへと向かった。

 はたして妹はそこにいた。

 ふらふらと力なく歩を進めながら、ビルの外階段を登っていた。

 「おい、アオイ、なにやってんだ」と叫ぶも、彼女に声は届いていないようで、歩みは止まらない。

 僕もすぐさま後を追う。外階段はそのまま屋上に繋がっているらしく、妹の目的地もそこのようだった。

 階段を登り切った先には手すりの向こう側にいる妹が見えた。足元を眺めて佇んでいる。

 言葉をかける余裕などなく、僕は一息に駆けだした。

 眼前の妹を捉える。彼女はこちらを振り返ると、にこりとした笑顔を見せた。

 妹は笑顔をやめると、見たことも無いような無表情を見せた。

 そして、落ちた。

 ……だが彼女は落ちきらなかった。

ぎりぎりで、本当にすんでのところで、僕はどうにか彼女の右手首を掴めていた。

 「おにい……」

 ようやく妹が喋る。

 その時の僕はどんな顔をしていたか分からない。怒っていたのか、泣いていたのか、喜んでいたのか。

 憶えているのは、とにかくがむしゃらに彼女の手首を掴んでいた、ということだけだった。

 そうするうちにも、すぐにレスキュー隊員が駆けつけてくれた。幸いなことに通行人が通報してくれていたようだ。

 無茶をしたために身体は怪我をしたけれど、そんなことは妹の命に比べては些細なことに過ぎなかった。

 その当時の僕は、やり遂げた達成感と妹が生きているという安堵感で、ただただ泣いていた。

 しかし今になって思うと、本当はあの時、妹の心だけはすでに飛び降りてしまっていたのかもしれない。

 なぜならその一件以来、妹は本格的に変わってしまったからだ。

 今のようにまともな生活が出来なくなってから、僕は仕事をやめて両親が残してくれていた郊外にある今の家へと引っ越した。

 飛び降りの危険と、少しでも静かな環境がいいと考えてのことだった。


 ……追憶を終え、視線を戻して行き交う人々を見る。

 その中には、多くのカップルもいた。

 みな一様に楽しそうな顔を見せ、それぞれの甘い世界に浸っている。

 「……」

 父親ではないだろう年上の男と並んで歩く女の顔に、かつての妹の顔がちらついて見えた。それから、今の彼女の顔が浮かぶ。

 毎日のように耳にして、身体に染みついた悲鳴が、僕の鼓膜を内側から揺さぶる。

 夜の街並みに照らされた幸せそうな男女。楽しげな雰囲気。

 でも僕にはそれが呪いをかけあっているように見えて、どうにも居たたまれない気分になった。

 その場から逃げるように立ち去り、しばらく歩いて友人たちと合流した。

そのまま近くの店で食事をした。

 友人たちとはみな中学からの知り合いで、互いによく知っている気のいい連中だった。

 彼らといるときだけは、僕は兄でいるよりも先に彼らの友人として振る舞うことができる。

 それでも完全には晴れない鬱屈とした気分を誤魔化そうと、苦し紛れにお酒も飲んだ。もともと弱い方なので、すこしの飲酒で身体が熱くなってくる。

 場の熱気に乗せられて、もう一杯飲んだころにはかなり酒がまわっていた。

 ゲラゲラと学生だった頃のように笑う。その時ばかりは心地よい開放感が僕の心をゆるやかに包んでいた。

 「――で、またアオイちゃんか?好きだねえ」

 「まあ、家族だし、ほっとけないからな」

 「そんなに大事ならもう結婚しちゃえよ」

 「ハハハ、馬鹿言うなよ」

 軽口が飛ぶ。ほぐれた雰囲気が僕の肩の荷を下ろしてくれる。彼らは僕にとっては大切な友人だ。こうして外に連れ出してくれることには感謝してもしきれない。

 しばらくそうしてから、僕らは店を出た。

 そのまま2件目に行くと友人たちは言い出したが、流石にそれは辞退した。

 「アオイちゃんによろしくなー」と手を振る友人のひとりに、僕は苦笑しながら小さく手を振り返した。

 酒の熱気に浮かれながらも、僕はコンビニに寄って食品を買い込み帰途についた。

 しばらく歩いて、僕は妹の待つ家へと戻った。


 玄関を開けると、相変わらず妹の唸り声が聞こえた。廊下を通り、彼女の部屋へ向かう。

 コンビニの袋を片手に、ドアを開けて電気を点ける。そこには出かけた時と変わらぬ妹の姿。

 みじめでみすぼらしい妹の姿。

 老婆とも見まがうその容姿で、かすかに震えている。

 「……」

 酩酊した心もちが現実に引き戻されるのには、そう時間はかからなかった。

 「……ただいま」

 重苦しく吐いた言葉に、妹は苦しみあえぐ声で返す。

 もとより返事など期待はしていない。それでも呼びかける。かつてもそうしていたように。いつかは帰ってくるかもしれないと淡い期待を籠めながら。

 「パンとかお惣菜を買ってきたぞ。台所に置いとくからな」

 一方的に喋る僕と苦しむ妹。いつもと変わらない光景だったが、その時は少し違っていた。

 僕の中で苛立ちが、じわりじわりと腹の底から湧き上がってくるのを感じた。

 外の新鮮な空気とアルコールが僕の燻ぶっていた心を燃え上がらせたのかもしれない。

 手にしていた袋がどさりと音を立てて落ちた。不思議と重い音だった。

その音に火蓋を切ったように、僕は口を開いた。

考えるよりも先に心が動いていた。


 「……なあ、アオイ。もういい加減にしたらどうだ?」

 震えていた妹の身体がびくりと揺れ、それから止まる。

 僕は勢いのまま彼女の枕元へと歩いた。

 発作が少し治まっているのか、妹は僕に気付く。

 彼女は目を丸くして、僕を見つめる。頬をなぞる一筋の涙。

 「おにい……?」

 「アオイ。……もういいだろう?あと何年続けるつもりなんだよ」

 「でも、でも、だって、あの人は、私のために……私を助けて、それで……溺れて……気づいたら、どこにも、いなくて……それで……」

 当時の情景を思い出したのか、妹はパニックに近い反応を見せる。

 やせ細った手で泣きはらした顔を覆い、痙攣したように身体を震わす妹。その姿は他人が見れば、地獄の餓鬼を思い浮かべるかもしれない。

 だが僕はそれでも容赦せず、彼女の右手首を掴み、顔から引きはがした。面と向かって顔を突き合わせる。

 彼女の目をまっすぐに見据え、噛みしめるような声で問いかけた。

 「アオイ。お前は本当に海へ行ったのか?よく思い出してみろ。……本当に、その人は、海で溺れたのか?」

 妹はきょとんとした表情で、僕の顔を見つめ返した。言われたことが理解できていないと言わんばかりだ。

 僕は再び、念を押すようにゆっくりと問いかける。


 「アオイ、もう一度聞くぞ。本当に、その人は、アオイと一緒に海に行って、死んだのか?」

 そこで彼女は僕の言葉の意味を理解したようだった。

 びくりと身体を揺らす。目を見開き、僕の言葉を拒絶するように、枯れ枝のような手足で必死に身もだえしはじめた。

 「だめ……」と小さな言葉。

 妹の抵抗に罪悪感が芽生えるも、それはすぐに腹からこみ上げるよどみに塗り替えられた。堰を切ったように言葉が流れ出す。

 「思い出すんだ。海に行く約束をした前の日に、家に彼の奥さんが来たことを。アイツは不倫してた。アオイは遊ばれていたんだ」

 「嫌アァ……」

 喉の奥から絞り出すような枯れた声が聞こえる。

 妹は目を真っ赤にし、口を大きく開け、いまにも叫びだしそうだ。だけれど、もう彼女からは涙すら出てこない。小動物のようにみじめに身震いするだけだ。

 「次の日に大波が来たのは事実だ。でもあの時お前はそこにいなかった。そうだろう?……なあ、認めたくないのは分かる。でもだからって、こんな形で自分に嘘をついたってどうしようもないじゃないか。お前はただアイツに遊ばれて捨てられたんだ。そしてその事実からずっとずっと逃げているだけなんだよ。違うか、アオイ……」

 肩で息をしながら、僕はとうとうそこまで言い終えた。

 彼女の腕を放す。それはゆっくりと力なく、しなだれるように床まで落ちた。

 僕は息を荒くし、視線を落としてその場に座り込む。焦点の合わぬ目が床を映すうちに、酷い脱力感と後悔の念が背中を這いまわり僕の身体を苛んだ。


 ……言ってしまった。言い切ってしまった。

 悲しみから逃れるために虚像にすがっていた彼女に、ついにむき出しの事実をぶつけてしまったのだ。

 じわりじわりと後悔が沸き上がる。

 気まずさがその場を漂い、二人の間に沈殿する。

 「……ごめん。悪かった」

 しばらく黙り込んで、ようやく僕が見つけた言葉はそれだけだった。

 「……」

 妹の返事はない。それも当然だ。

 今まで自分が縋っていたものが一息に壊れてしまっては、話すことなどできるはずもないだろう。

 僕は最も愛すべき妹を壊してしまった。

 吹き募る自責の念が心を打ちつける。


 ……と、そこで僕は違和感を覚えた。

 何かがおかしい。

 少し考えて気付く。

 僕の前からは、彼女の鳴き声すら聞こえなくなっていた。

 視線を上げる。


 そこには誰もいなかった。


 「……えっ?」

 思わず立ち上がり、室内を見渡す。布団が敷かれただけの殺風景な部屋と、先ほど落としたコンビニの袋しか見当たるものはない。

 家具の少ない部屋には隠れる場所もなく、そもそも布団には誰かが寝ていた形跡すら見つからなかった。

 でも、確かに、妹はここにいたのだ。あの手を握った感触だってまだ残っている。

 妹は生きて、ここにいたのだ。

 「アオイ……」

 彼女の手首をつかんだ右手を目にする。

 同時に激しい頭痛がした。酷い息苦しさと全身をねじられたような痛みが突如襲ってきた。

 床に手を突き痛みに耐える。

 その合間にフラッシュバックしたのはいくつかの光景。

 強く握った手。離れていく妹。そして、赤い花と罪悪感……

 痛みに閉じた目を開くと、誰かの足元が見える。思わず見上げると、そこには妹がいた。

 彼女は写真と変わらぬ美しい顔をして、静かに涙を流していた。

 ……自分に嘘をついて、事実から逃げていたのは、本当は誰だったのだろう。

 息が苦しく途切れ途切れになる。その呼吸音はいつも聞いていたはずの妹のものだった。

 妹は泣きながら頷くと、背景に溶けるように消えた。

 身体の内側からはとめどなく痛みが湧き上がる。地面に叩きつけられたような鈍く重苦しい痛みだ。


 そして僕は気づいた。

 僕は、あの日から妹だった。


 理解して、身をよじらせた。

 妹を追想するその痛みだけが、この場にいるのが僕であるということを教えてくれていた。

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