きっと忘れない
澤田慎梧
きっと忘れない
「ハク……よく頑張ったね」
そう呟きながら、その名前の通り真っ白なハクの毛並みをそっと撫でる。
けれども、ハクはもう喉をゴロゴロと鳴らして甘えてくることもなければ、「ニャーン」というよりは「キューン」と聞こえる特有の可愛らしい声で返事をしてくれることもない。
先程まで確かにあった、ハクの温もりは急速に失われつつあった。
毛並みは相変わらずシルクのように滑らかで柔らかいのに、その向こう側にあったはずの命の熱量は、もう感じられない。
――白猫のハクが、二十年という長い長い生涯を閉じたのは、つい先ほどのことだった。
息を漏らすように「キュゥ」と長く鳴いたきり、ハクの呼吸は止まってしまった。弱々しく開かれた眼からは急速に光が失われていき……その体は急速に冷めていったのだ。
ハクがウチに来たのは、僕が十歳の時のことだった。
ある冬の寒い日、まだ目も開ききっていない、小さな小さな白猫が庭に迷い込んできた。恐らくは近所で捨てられた子猫だったのだろう。母親猫の姿を探してみたけれども、どこにも見つからなかった。
子猫は、誰かが世話をしなければすぐに死んでしまう。
自分で餌を獲ることも出来ないし、排泄だって定期的にお尻を刺激してあげないと上手く出来ない。一人では生きていけない生き物なのだ。
「このまま放っておけばこの子も死んでしまう」――見かねた僕と両親は、その子猫を飼うことにした。
最初は苦労の連続だった。
普通の牛乳をあげるとお腹をこわしてしまうので子猫用のミルクを買ってきたり、何時間か毎におしりを刺激してあげて排泄を促したり、体が冷えないよう寝ている間は毛布でくるんであげたり……。
人間の赤ちゃんをお世話するのと同じ位に大変だった。
けれども、そんな苦労の甲斐があったのか、子猫はすくすくと成長してくれた。
白い柔らかな毛並みから、僕らは彼のことを「ハク」と名付けた。
ハクはとてもやんちゃな猫だった。
オス猫のわりに気性は優しかったけれども、とにかく動き回ることが大好きで、草木の多いウチの庭を嬉しそうに駆け回り、あるいは木によじ登り、時には下りられなくなって「キューン」という情けない声で僕らに助けを求めることもあった。
成猫になって、どんな高い庭木からもヒラリと下りられるようになった時は、ちょっとだけ寂しさを感じたものだった。
ハクはとっても甘えん坊な猫でもあった。
夏以外の殆どの季節、ハクは夜の寝床を僕の布団と決めていた。
春秋は布団の上――特に僕の上に乗っかって寝るのがお気に入り。
冬は決まって布団の中。お互いに温もりを分け合うように、身を寄せ合って眠ったものだ。
でも、ハクはよく「夜のお散歩」のついでに獲物――ネズミや蛇を獲ってきて、家の中に持ち込んでくることもあったので、朝僕が起きると布団の上にでっかいアオダイショウが! なんてこともあった。
ハクとしては、「お土産を持ってきてあげたよ」というつもりだったんだろうけど……。
時にそんな珍事件を起こしつつも、僕とハクとの十年間は穏やかに過ぎていった。
心身ともに不安定になる思春期も、変わらず接してくれるハクのお蔭で沢山救われた。
高校受験や大学受験の時には、勉強に集中する僕の周りで「何で遊んでくれないんだよ!」と、ハクが抗議のゴロゴロをよくしていたっけ。
初めて彼女を家に連れてきた時も……ハクはゴロゴロと「キューン」を駆使して、彼女のハートをがっちりキャッチしてくれたものだ。
でも、それから数年後、僕とハクは離れ離れになることになった。
僕が彼女と少し早い結婚をして、家を出ることになったのだ。
本当はハクを新居に連れて行きたかったけど、「猫は家に付く」もの。それに、ハクは僕にとっての「兄弟」であると同時に、両親にとっての「息子」でもあった。
だから僕は、ハクを連れて行くことを諦めたのだ。
「ハクに会えば連れて行きたくなるから」なのかなんなのか、自分でもよく分からないけど、その後の僕はあまり実家に近寄らなくなっていった。
両親に用事が有ったり届けものがあったり、はたまた盆や正月に顔を出す時くらいしか近寄らなかったので、必然、ハクと接する機会も減っていったのだ。
だからなのか、ハクは僕とたまに顔を合わせると「お前なんか知らない」とでも言いたげな表情を浮かべ、そっぽを向くようになってしまった。
「猫は三年の恩を三日で忘れる」なんて言うけれど……ハクの場合は、きっと僕のことを覚えていて、抗議の意味でああいった態度をとったのだと思う。
僕がそれを悟ったのは、ハクが亡くなる数時間前のことだった。
『ハク危篤。すぐ帰れ』
ある日、母親から送られてきた、大昔の電報みたいな文面のメール。仕事中にそれを見た僕は、気付けば会社を早退して実家へと駆け込んでいた。
――そこには毛布にくるまれ、お気に入りの座布団に寝かされたハクの姿があった。
息は絶え絶えといった様子で、呼吸は浅く速かった。
薄く開かれた目は、もう焦点が合っていなかった。
母と父がしきりに頭を撫でてあげているが、もうゴロゴロと喉を鳴らすことも「キューン」と甘えた声を上げることも……ない。
「先生が言うには、年齢もあるけど、もう腎臓が駄目なんだってさ……。病気一つしたことがなかったのにねぇ……」
母が涙ぐみながら呟く。
僕ら家族の中で、一番長くハクと時間を共にしたのは間違いなく母だ。だから、きっと一番辛いのも母なんだと思う。
ハクはもう二十歳だ。人間で言えば百歳近く。飼い猫は寿命が長いと言っても、その中でも群を抜いて長生きな部類に入るだろう。
だから、いつ「その時」が来てもおかしくないと覚悟をしていたはずだった。
――けれども、覚悟があったからといって耐えられるわけじゃないんだ。
「……ハク?」
名前を呼びながら、恐る恐るハクの頭に手を伸ばす。
ここ数年触れていなかったハクの、シルクみたいな毛並み。僕が家を出てからというもの、撫でようとするといつもハクに逃げられていた。でも、今のハクには逃げる元気もないだろう。
――だから、本当に僕が撫でていいものか……撫でた瞬間にハクが逝ってしまうんじゃないか……そんな思いが僕の中に渦巻いてしまっていた。
でも――。
『キューン』
弱々しい、本当に弱々しい鳴き声を上げて、ハクの顔がほんの少しだけ動いた。
そして撫でる寸前で止まった僕の手の方に鼻を向け、数回匂いをかぐような仕草をすると……今度は喉をゴロゴロと鳴らし始めたのだ。
「あはは、ほら、『早く撫でろ』ってさ」
その様子を見ていた父が、泣き笑いのような表情で僕にハクを撫でるよう促す。
だから僕は、ようやく――そっとハクの頭を撫でた。
柔らかくてモフモフで、でもツヤツヤもしていて……世界中のどんな上等な毛皮を集めたってかなわない、ハクの極上の毛並みが、そこにあった。
ハクの温もりが、そこにあった。
ハクは再び匂いをかぐような仕草をすると、満足げに更にゴロゴロを強くした。「もっと撫でろ」という意味だ。
「あらあら、なんて嬉しそうなゴロゴロ……! 本当に、あんたら二人は仲良しだねぇ……」
鼻をすすりながら呟いた母のその言葉に、僕はハクに忘れられていなかったことを悟り、自然と涙をこぼしていた――。
――ハクが息を引き取ったのは、その数時間後のことだった。
両親と僕は、一番大きな庭木の根元にハクを埋めることにした。子猫の頃、ハクが勇んで登り、下りられなくなっていた、あの木の根元に。
ハクの墓標として、これ以上ふさわしいものは無い気がしたのだ。
この木がある限り、ハクがそこに居てくれるような気がしたのだ――。
――そして時は更に流れ、いつしか僕も人の親になっていた。
「結婚は早かったのに子供は遅かったね」なんて心無いことを母に言われたけど、一番喜んでくれたのも、足繁く僕の家へと通って子供の面倒を見てくれているのも母なので、文句は言えない。
子供もよく母に懐いてくれて、最初の言葉が「パパ」でも「ママ」でもなく「バァバ」だったくらいだ。……ちょっと悔しい。
そんなこともあって、僕は子供をよく実家に連れて行っていた。
母に面倒を見てもらえて助かるし、庭が広いので子供を元気よく遊ばせられるし……なにより、ハクのあの木に会うことも出来る。
名も知らぬハクの木は、ますます太く強く育っているように見えた。
きっと僕の子供が大人になる頃にも、変わらずそこに立っていてくれることだろう。
子供を抱っこしながら、木の下で僕がそんな物思いにふけっていると……ふいに子供が木の方へ手を伸ばし始めた。どうやら木に触りたいらしい。
一歩、木の方へ近寄ると子供がその紅葉のような可愛らしい手で木にそっと触れた。
僕もそれにならって、そっと木に触れてみる。
手のひらに伝わってくるのは、ザラッとした手触りと固く冷たい木の感触。それでもどこか温もりを感じる……だなんて言ったら、流石にロマンチストが過ぎるだろうか?
子供の方は、その木の感触が気に入ったのか、楽しそうにキャッキャと笑いながら、木の表面をペシペシと優しく叩くように撫でている。
――どこかで、「キューン」というハクの鳴き声が聞こえた気がした。
(了)
きっと忘れない 澤田慎梧 @sumigoro
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