参・外れた人道に目を瞑る

 重厚なソファが、和の趣ある旅館に何故か馴染んでいる。明治期に流行った和洋折衷がそのまま取り残されたよう。

 二人は向かい合って座った。タバコを咥え、火を点ける。

 彼にも箱を差し出せば「どうも」と言いながら一本抜いた。親指の爪にトントンと吸口を叩く、その顔は曇りがちだ。

 一方、稲子は清々しく煙を吐いた。

「聞きたいことがあるんだけれど」

 見弦矢は了承したのか、肩をすくめた。火を点け、黙ったまま煙をくゆらす。

「ずっと芙美子を見てたんなら、何か知ってるでしょ。あんた、白無垢は見たかい?」

 しかし、期待した答えは得られそうになく、彼は首を横に振った。

「芙美子さんは何もない場所を見て驚いていました。何があったのか分からない。妖怪ってやつですかね、何か異形を見たような顔をしていて。今年に入ってから、それが続いています」

 偽りはないだろう。素直な青年は気だるげな溜息と煙を吐き出した。

 となれば、白無垢を見たのは。多一郎も見ていないと言うし、旅館に棲み着くあやかしというセンは確実に消えた。

 どろりと濁濁の煙を吸い込み、脳へ浸透させ、しばし考えあぐねる。

「……あの、稲子さんって拝み屋さんなの?」

 思考の中に入り込む見弦矢の問い。

 そう言えばきちんと自己紹介していない。だが、面倒くさい。巾着を開け、薄い名刺を取り出す。

「霊媒相談受付マス、神林稲子……」

「呪い専門だけれどね」

 ぶっきらぼうに言うと、見弦矢は関心げに「へぇぇ」と名刺を眺めた。

「さておき……芙美子にしか視えないんじゃ、どうしたものかねぇ」

 すべての事象にはコトワリがある。白無垢の正体が分かっても、その理が視えなければ施しようがない。

 妖怪というのはまさに複雑怪奇な生き物だ――ただ、人間も一概には言えない。これはなのだろうから。

「――見弦矢」

 呼べば彼は顔を上げる。

「あんたには働いてもらおうかね」

 稲子は三日月のような唇をつり上げた。

 利用できるものは利用する。師匠はそれが大嫌いなのだが、知ったことではない。


 ***


「――ごめんねぇ、遅くなって。先に寝てても良かったのに」

 芙美子は髪の毛をタオルで拭きながら部屋に来た。おどおどと頼りなく、怯えを隠せないようだ。

 稲子はふと気になって訊いた。

「それにしても、恋人ってのは一緒に寝るものじゃないの?」

「多一郎さんは一人で眠るのがいいみたいだから、遠慮しているの」

「ふうん? 婚約者が怖がっているというのに。呑気ね、あの人」

 芙美子が布団に潜り込む。稲子は思案げに照明を落とした。




 芙美子の寝息が耳を通る頃、稲子は左目に違和感を持った。

 この目に閉じ込められた怪異が何かを知らせている。瞼を開くと、左の景色だけが反転したような色合いで、天井が白んで視える。

 稲子は息を止めた。

 左目から脳へ電流が走るように、キーンと痛みがつんざく。


 ――何かが、くる。


 くる。

 近くに。

 居る。

 布団に入っているのに、芙美子の体温もあるはずなのに、寒気が背中や腹をさわる。どす黒い煙が渦を巻いて降り立つような、煩わしい恐れが全身に取り憑く。

 と、突然に白んだ天井から黒い塊が落ちた。

「……っ!」

 隣で声にならない悲鳴が上がる。いつの間にか芙美子も起きていた。

 両目を大きく開き、絶対に正面を向かない。稲子の方を向いて呼吸する。その音を聞きながら、稲子は左目に映る影を視た。

 蠢くそれは糸くずのよう。のたうつ輪郭が浮かび上がり、白無垢と角隠しを象る。顔のない花嫁がゆっくりと布団に伸し掛かった。

「いや、こないで、こないで、もう、お願いよ……」

 唱えるような芙美子の拒絶。両眼は開いたままで鼻や奥歯を戦慄わななかせる。

 蠢くソレを睨みつけ、稲子は布団に忍ばせていた護符を芙美子の上にかざした。途端、黒い塊が怯むように収縮する。

 消えていく。脳に伝わる電流が和らぐと同時に、芙美子の震えも弱まる。

「芙美子さん! 稲子さん! 大丈夫ですか!」

 廊下にいた見弦矢が布団に駆け寄り、照明をつけた。

 芙美子は荒く呼吸し、布団の中で丸まっている。稲子は芙美子を庇う体勢のまま、見弦矢に訊いた。

「……視た? 今の」

「え?」

「視ていないんだね」

 彼の驚きを察すればそうだろう。

「済みません。僕には何がなんだか……」

 見弦矢は言い訳のように小さく吐いた。

 すると、芙美子の震えが止まった。見れば、彼女は先までの恐怖を忘れたかのように寝息を立てている。

 稲子は布団を翻し、トランクの中から小さな手帖を取り出した。

「なんです、それ」

「ンー……」

 見弦矢が訊くもロクに返事せず、稲子は渋い顔つきで栞を挟んでいたページを開く。鉛筆の殴り書きが広がる。

「大昔、この村は災害と飢饉に見舞われた。そんな折、一軒の商家に遠い都からはるばる娘が嫁いできた。宝を手に入れようと村民たちは、その輿入れに乗り込み、花嫁をさらい、揉み合い、洞穴へ落としたんだと。これが花姫」

 静かに早口に言えば、見弦矢は息を飲んだ。

「じゃあ、花姫さまの怨念だと?」 

「あぁ。大昔のお話だけれど、事実だと思うよ」

 今よりもっと人命が軽んじられていた頃の話だが、理不尽に殺された魂は濁濁の煙のようによどんでいく。混沌をもたらし、悪の渦を蔓延させる――すなわち祟り。

「他所から来た花嫁に祟る。だから、芙美子にしか姿を見せない」

 稲子は苦々しく唇を噛んだ。


 ***


 翌朝、稲子は朽葉の家へ向かった。道中、村人に尋ねたが、誰も花姫について知らぬという。聞けば、疎開で移住した者ばかりだった。旧民は朽葉と野間、それから何軒か。

 不思議は廃れないが、人は忘れていく。特に、この十数年は生きるのに精一杯で、過去を顧みる余裕はなかった。忘れてはいけないのに。

「花姫の目的はなんなんだろう……」

 恨みを持った悪霊が人を呪い殺し、新たな贄を探して彷徨い蠢く化物――だが、件の花嫁には出現の条件がある。

 昨夜は稲子が護符で護ったから消えたのだろうが、どうして今までも殺さなかったのか。

「――花姫さまは、連れてくだけさ」

 背後から砂利を踏む音と、しゃがれ声が聞こえた。朽葉という老婆だろう。

 穴だらけの口をねちゃねちゃ言わせ、嗤う。

「連れてかれるんだよォ。花姫さまに連れてかれる。あの娘も」

「殺すんじゃなくて?」

 冷めた口調で訊くも、老婆は嗤いをやめない。

「殺すだァ? んなわけなかろう。花姫さまになるんだよォ。そして宝を授けてくださる。それを望んでおる」

「え?」

 言葉に引っかかる。

 しかし、老婆はそれ以上喋ることはなく、歌を口ずさみながら家へ引っ込んだ。


「はなひめさま、はなひめさま、まっちろおべべでどこいくの」


 あっちはおやま こっちはおがわ


 あなにもぐって とんからちゃん


 おはながわいた とんからちゃん――

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