弐・夜半に映える純白
芙美子が寝静まるのは、すべての業務を終えた午後十一時だ。
十時には館内すべての照明を落としてしまうのだが、異様な明るさを瞼で感じ、彼女は寝ぼけ眼をこすりながら起き上がった。その時、ゆうらり
それはまさに白無垢。ただし、顔はない。
人の形を模した膨らみはあるが、中はもぬけの殻。風のない部屋で布がはためくというのも摩訶不思議な現象である。
驚いて多一郎の元へ行き、彼を自室へ引っ張ってくれば白無垢は跡形もなく消えていた。
「だから寝室を交換したのよ。地縛霊はその場に留まるものでしょ? でもね」
芙美子はおどおどと上目使いに訴える。
「そういうのじゃなかったのよぅ。多一郎さんの部屋にも出たの」
無人の白無垢はただただじっと芙美子を見つめていた。目も顔もないというのに、じっとりと重たい視線を感じるのだ。
「もう怖くて怖くて。でも、こういう商売だし、滅多なことを言うもんじゃないと思って黙ってたの。そんなある日、買い物に出かけたら、
「朽葉のお婆さん?」
稲子は初めて口を挟んだ。
「誰?」
「古くから村に住む方です」
多一郎が簡潔に説明する。
「朽葉さんのお宅は川の近くにあります。気のいい方なんですけれど、あまり外には出られないんですが」
「その朽葉さんがね、突然、私をじっと見て言ったの」
――あんたも、はなひめさまに連れて行かれるんだよォ。
朽葉という老婆は顔をくしゃりとさせ、嗤ったという。
「連れて行かれる、ねぇ……」
稲子は不審に眉を潜め、思い当たる歌を口ずさんだ。
「はなひめさま、はなひめさま、まっちろおべべでどこいくの」
それは子どもたちの童唄。
「昔からこの辺で歌われてるものですね。よくご存知で」
「調べてきたのよ、ここへ来る前に。歌の意味もね。はなひめさま――つまり、この村で人柱となった可愛そうな花嫁さんのこと、でしょ?」
サラリと言えば、多一郎と芙美子は両眼をパチパチ瞬かせた。顔を見合わせる。
稲子は眉を持ち上げ、鼻息を飛ばした。
「ま、
稲子は躊躇いなく言い放った。芙美子も多一郎も口をつぐんでしまう。
「じゃあ、芙美子ちゃんは今日、アタシと一緒に寝ようか。大丈夫よ、護ってあげる」
なんにせよ、
稲子は足を投げ出し、温まった体をほぐした。
「ところで、温泉にはもう入れるんだろうね?」
ケロリと明るげに言えば、押し黙っていた多一郎と芙美子も表情を緩めた。
***
二階の部屋から出て、階段を降りてすぐに「大浴場」というのれんが掛かっていた。そこが野間屋が誇る硫黄泉。
稲子は浴衣を持っていそいそと浴場へ向かった。
「待って、イネちゃん!」
後ろから芙美子が小走りに追いかけてくる。
「私も一緒に行く〜!」
「え? 仕事は?」
まだ昼の十四時だ。客が少ない時間とは言え、仲居が勝手に仕事を放棄していいものか。
芙美子は「うふふ」と含むように笑い、稲子の背中を押した。
「多一郎さんがね、
嬉しそうにはにかむ彼女は「素敵な方でしょう?」と自慢する。稲子は苦笑を落とした。
広々とした浴場とその奥にある露天風呂へ。だが、さすがに寒風が身にしみる。二人は一直線に湯の中へ隠れた。
綿湯気の奥にはのどかな雪化粧。しんと静かに冷たい空気に、とろみのある熱い湯が肌に優しい。浸かればじんわりと温もり、血の巡りを感じる。煩わしい臭みもない。
「ところでイネちゃんは浮いた話を聞かないけれど、どうなの?」
湯の心地を噛み締めていたら、唐突に芙美子が訊いた。途端、稲子は黒い眉をしかめる。
「うちの師匠が言っていたけれど、恋だの愛だのはくだらないって」
「出た、お師匠さん。イネちゃんったら、昔からそうよねぇ。そんなんじゃ一生、結婚できないわよ」
「余計なお世話!」
稲子は湯をすくい、芙美子の顔に飛ばした。
しばらくじゃれあい、笑い疲れた頃。稲子は一息つき、静かに芙美子を見つめた。
「――ねぇ、芙美子ちゃん。あなた、どうしても結婚するの?」
淋しさはない。旧友が幸せならそれでいい。けれど、どこか腑に落ちない。
というのも、芙美子は稲子の故郷では良家の娘であり、淑やかで品のある少女だった。夢見がちな面もあり色恋に憧れる乙女ではあったものの、こうも突然に婚約宣言し、野間家へ押しかけるといった行動の原理が皆目分からなかった。
その疑問を跳ね除けるように、芙美子は「勿論よ」と軽く言う。
「お父さんも許してくださったし、村の方々もお優しいし。恋には不思議なパワーがあるのね」
成る程、恋は呪いや祟りよりも強い
***
湯を堪能した後、芙美子は仕事に戻っていった。
外はもう暗く、宵に包まれている。部屋でのんびりとくつろぐ……わけでなく彼女は浴衣と羽織で館内をあちこち歩いた。
特に異変はなく、それにこの旅館で「霊が出た」などの噂はない。多一郎も他の従業員も見たことがないというし、どこを回っても悪しき影は視えなかった。
一般客が立ち入れない休憩室。仲居や番頭、店主の多一郎や芙美子が夜中の業務で使う六畳間。
彼女は右目に手を当て、左目だけで周囲を見渡した。
怪異の目ですら
「……気味の悪い目だ。そうやって、芙美子をずっと見てたんだろうねぇ」
誰もいない空間に声を投げつけてみる。弾ませ、笑うように。
すると、開いた入り口から、つるりとした童顔の学生が現れた。見弦矢陽司だ。
「おや、稲子さん。奇遇ですね」
とぼけた言葉。稲子はクスリと小さく音を立てた。
「ここは立入禁止だよ。まったく、芙美子が感じていた視線はあんたね。フアンもここまでくると気味が悪い」
見弦矢は渇いた笑い混じりに投降した。
「芙美子さんが呼んだ
「しかし脈なし、と。まぁ、あんたみたいな芋学生を相手にはしないだろうねぇ、あの娘は」
稲子は意地悪に言いながら、持っていた巾着袋を探った。タバコとライター。それを振ってやれば、彼は心得たように頷いた。
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