いたずら電話

江戸川台ルーペ

愛してるって言ったじゃねえかよ嘘なのかよ

 イイダがその転校生を初めて見た時、綺麗な女の子だと思った。

「今日から一緒に勉強する、キノシタさんです。みんな、仲良くしろ」

 担任男性教師の軽い紹介の後、後ろから一歩前にでて、緊張した声で

「よろしくお願いします」

 とキノシタが挨拶をした。透き通った声だった。

 中学校二年生のわりに背が高く、セミロングの髪型が良く似合っていた。教室はまだ晴天の午前中で、窓の外から照り返す五月の浅い陽の光が、キノシタの仄かに色付く頬を健康的に照らした。目は切れ長で鼻が高い。美人だった。


 横浜から転校してきたというキノシタは、四十名程のクラスにすぐ馴染んだ。千葉の辺境にあるこのシケた煎餅のような中学校に引っ越してきた理由は不明のまま(それを特に深く聞く者はいなかった)、彼女は彼女なりに周囲に溶け込もうと努力をしていたし、ともすれば澄ました冷たい印象を与えるキノシタが明るく朗らかに笑うと、クラスの空気が変わった。彼女は特別なのだ、とクラスメイト達は思った。ごく稀に現れる、特別な、我々と違う雰囲気を纏う人間。将来は大物になるに違いない。そう大人にも教師にも思われるタイプの女の子なのだと。


 イイダには友達がいた。「キムチ」という渾名を付けられた本名キクチという男子だ。キムチが何故キムチと付けられたかと言うと、給食の時に弁当にとても強烈な匂いを放つキムチを持参してきたからだ。大きなタッパーにぎっしり詰め込まれたキムチの赤はトロリと鮮やかに映えた。

「うわ、臭い!」

「何だこれ、うわ、うわぁーくっさ!」

 教室は騒然となった。

「ううう、うるせえな馬鹿野郎ッ! うるるるせえなこの野郎ッ!!」

 キクチは吃音が激しかった。小柄で、左足は小さくびっこを引いていた。学ランに着られているような、発達が遅い子供のような中学生だった。だからと言う訳でもないが、クラスの中ではおとなしいグループに属した。スポーツを活発に嗜むような同級生とは無縁だった。何度かそういう同級生達からちょっかいを掛けられた事もあったが、その度にキクチは意味のわからない大声を上げて抵抗した。そうする事でキクチはキクチなりの、「やられっぱなしではない、キレたら怖いキャラ」を確立していった。いじめられっ子ではない。だが、決してその他大勢から尊重されるべき声が大きいクラスメイトの一人でもない。


 イイダはそのキムチが面白い奴だと思っていたし、キムチもイイダを友人として好いた。イイダはそのひょこひょこと小さくびっこを引くキクチの歩き方をバカにしなかったし、「もっと早く歩けよ」などと強制もしなかったからだ。お互い、大好きなファミコンの話題を心ゆくまで語り合える、同志のような存在だった。ファミコンソフトの貸し借りはもちろん、お互いの家に行ってファミコンで遊ぶ事も多々あった。キムチの親は(母親だけだった)すっかりイイダと顔馴染みになり、「学校での息子の様子」を聞きたがった。その度にキムチは「やややめろよ! うう、ううるせーよバカむ向こう行ってろよババア!」と顔を真っ赤にして怒った。イイダは曖昧に微笑んで、コントローラーを操作するのに夢中なふりをした。

キムチの母は目を細めて、不貞腐れる息子の頭をクシャクシャと撫でた。

「ウチの子と仲良くしてくれて、ありがとね」

「うっせんだよババアァ!」

あなたが持たせたキムチのせいで、「キムチ」と呼ばれてる、などと言える訳もない。


 ⬛️


 土曜日の半ドンを終えて、未だ真昼の内にイイダとキムチは一緒に歩いて校門を出た。もうすぐ夏休みだけど、どこか行くのか、何をするのかというような、しようもない話をしながら、大きな公園の中を歩いて行った。ふと、道から外れた草むらの中に小さくしゃがみこむ後ろ姿のキノシタを見つけたのは、キムチだった。

「おい、あれキノシタじゃないか?」

 キムチが指を指してイイダに言った。

「あ、そうだな」

 キノシタはクラスの中で、既に特別な存在として扱われていた。イイダやキムチはその威光にひれ伏す平民、貧民……の扱いだったが、その実、イイダにとってはキノシタの事などは、どうでも良かった。綺麗な顔をしている同級生である以上の存在にはならなかった。「僕」と「キノシタ」の間には大きな隔たりがあって、それを必死に埋めて仲良しになる必然性を感じなかったのだ。だが、キムチはキノシタを常に目で追っていた。イイダはそれに気付いていた。おいおいやめておけよ、とイイダは思っていた。あいつは高嶺の花だ。クラスの大勢の男子があいつの気を引こうとしている。公平な目で鑑みて、キムチに勝ち目はない。


「キ、キキキノシター! そそそこで何してんのー!?」

「おいバカ、やめろよ!」

「なな何で? べ別にいいじゃねえか」

 キノシタがこちらに気付いて立ち上がると、じっと二人(イイダとキムチ)を眺めた。何だ?とイイダは思った。声を掛けた俺たち二人を見て、キノシタが嬉しくも悲しくもないのは分かる。だが何の感情もない目というのは、あそこまで奥行きがなくなるものなのだろうか?


 キノシタが無表情に手招きをした。

「おおお、お俺たちのこと呼んでる」

「何か気持ち悪いなあいつ」

 イイダがいかにもいけ好かないという声を発した。

「そそそう? とりあえず行ってみようぜ」


 草むらの中に入って行くと、キノシタは黙って地面を指差した。そこには蝿がビッシリとたかった猫の死骸が横たわっており、異臭が鼻を突いた。

「うわッ、くく、くっせ!」

「この死骸、猫じゃないか?」

 オエッとえずきながら、学ランの袖で鼻を抑えてイイダが言った。さっきまでキノシタはしゃがみこんで、もっと顔を近づけてこの死骸を観察していた。どう考えても尋常ではない。

「お前これ……」

 イイダが振り返って「何で眺めてたんだ?」と聞こうとしたところで、凍りついた。キノシタがニッコリと朗らかに、美しく、軽やかに微笑んでいたからだ。

「可愛いでしょ?」

 キノシタが二人に言った。

「昨日まではすごく元気だったんだけどね」

 イイダとキムチは顔を見合わせた。

 陽だまりの中で動かない三人と猫の死骸を、けたたましい蠅の羽音と静謐が公平に包んだ。


 ⬛️


 それからしばらくして、キムチはキノシタの下僕になった。下僕というか、小間使いというか、そう、便利な言葉がある。パシリだ。


 キムチとキノシタ、この二人の間に何があったのか、イイダには理解ができなかった。クラスの中では、二人はまるで関係が無いように装っている。だがイイダは休憩時間や昼食の時間にキムチと雑談をしていて、キムチがキノシタの様子をチラチラと伺うのに気付かない訳にはいかなかった。

「おい、どうしたんだよ」

 イイダはキムチに言った。

「何でそんなにキノシタばっかり見てるんだ」

 キムチはハっとして

「べべ、別になんでもない」

 と取り繕って、残りの麦茶のペットボトルを煽った。それからボソっと

「おお、お俺なんか、どうせ駄目なダメなヤツだからよ……」

 とボソッと呟いた。イイダは一瞬それが気になったが、筋を元のファミコン裏技話に戻した。


 キノシタは明朗活発なスーパー美人女子として人気だった。大勢の男子が我こそはと次々とアタックしたが、ことごとく撃沈していった。よくある青春の一ページというやつだ。キノシタは栞をそこに挟むが如く華麗に男子どもをフリ続け、それでいて怨み嫉みを受ける事なく立ち回った。教師に注目され、クラスメイトの誰からも好かれるキノシタは今まさに、人生の輝き、最高潮であるかのようだった。だがイイダは、そこに陰のようなものを感じない訳にはいかなかった。何なのだ、この女は一体何者なのだと。


 まず最初に、あの猫の死骸を我々に指し示した際の奥行きのない瞳が気になった。それから、キノシタがキムチを従者のように扱う態度が気に食わなかった。恐らく、クラスメイトは誰も気付いていないだろうが、キノシタからキムチに対する一方的な支配は続いていた。イイダは下校時、偶然キノシタとキムチが二人で歩いているのを見かけた事があった。キムチはびっこを引いて歩き、隣で歩くキノシタはそのキムチの尻を時々強く蹴った。それは周囲に誰も居ない事を確認してから行われた。イイダは気付かれないように、注意深く二人の後を追っていたのだ。やがて二人は裏山の茂みにふらっと入って行った。


「どうしてお前は早く歩けねえんだ? あ?」

 土下座しているキムチの頭に靴を履いたままの足を乗せて、キノシタが口汚く罵った。

「すいません、すいません!」

「他の人は歩けるよなあ! 普通にさあ! いっちに、いっちにって!」

 いっちに、いっちにの所で、キノシタはテンポよくキムチの頭を踏んだ。

「あああありがとうございますッ! ああああ」

「どもってんじゃねえぞ、糞がッ!!」

 キノシタがキムチの脇を強く蹴った。

「どもんな!」

「ははははいいい!!」

 何度もキノシタはキムチを勢いよく蹴った。時折助走をつけて蹴った。

 しばらくして、切れた息を整えるとキノシタは言った。

「君が誰よりも頑張ってるの、私は知ってる」

 とてつもなく、慈しみに溢れた声で。

「不自由な足を一生懸命動かして、いっぱい、誰よりも努力して、他の人に負けないようにあなたは頑張ってる」

 キノシタは自ら土の上に正座し、仰向けに倒れて喘いでいるキムチの頭を膝の上に載せて、ついていた土や枯葉を丁寧に払いながら言った。

「だから、あなたの為に、私は厳しい事を言ってしまうの。もっと頑張って欲しいから。頑張ってるあなたの事を見ているのが、あたしは大好きだから」

 それからぎゅっとキムチの頭を胸に抱きしめた。

「ごめんね、ごめんね」

 そう何度も言いながら、キムチの頭を優しく撫で回した。

 キムチは声にならない声を上げながら泣きじゃくり、じっとその抱擁を受けながら、ありがとう、ありがとうと繰り返した。イイダはキムチの頭を胸に抱き優しく撫でながら、平坦で奥行きのない真っ黒い目をうっとりと細め、小さく微笑んでいるキノシタの横顔を物陰から言葉もなく見つめた。


 ⬛️


 どう考えても二人の関係は異常だった。キムチが最近、話を上の空で聞いていない様子や、時折震えて吃音が激しくなる原因が分かったような気がした。

「どうしたんだよお前」

 と聞いても、首を大きく横に振って何でもない、なな、何でもないとキムチは繰り返してばかりだった。どもると、「ヒッ」と息を呑んであたりを見回し、安堵の息を吐いた。


 やがて、キムチは学校を休み始めた。

 これ以上、放ってはおけない。


「ちょっといいか」

 イイダは昼休み中に女友達数人に囲まれて楽しげに喋っているキノシタの前に割って入ると、まっすぐキノシタの目を見て言った。一瞬クラス内が静まり返り、それからヒューとか、おぉーだとか、そういう囃し立てる声で沸いた。「馬鹿じゃねえのか」とイイダは思いながら、それを背中で聞いた。

「ちょっと行ってくるね」

 キノシタの声も聞こえた。きっと感じの良い、パーフェクトな笑顔で友人達に手を振っているのだろう。


 ⬛️


「何」

 理科室の半分には暗幕が引かれ、午後特有の眩しさは幾分和らいでいた。

「あたし、イイダ君とあんまり話した事ないよね」

 キノシタは腕を組んで、イイダと目を合わさずに不満気に言った。

「ああいう風にみんなの前で言われるとフォローが大変なんだけど」

「ふざけんな!」

 イイダは大声を上げた。

「お前、キムチに何をした!!」

「な、何よ?」

「俺は知ってるぞ、お前がキムチを犬みたいに、蹴ったりしてんの、見たんだからな! あいつ、足が生まれつき悪いのに、お前は……」

 そこで、グッとイイダは唾を飲み込んだ。

「お前は『何でもっと早く歩けないんだ』って思いっきり蹴っ飛ばしてた! 吃るなって蹴り飛ばしてた!」

 ポカーンとした顔をして、キノシタはイイダを見た。

「あいつはあいつなりに頑張ってんだ! お前が変な事をキムチにやったから、あいつ変になって、学校を休み始めたんだ! あいつがずっと学校来なくなったらどうすんだ!」

 キノシタは神妙な顔で顎に指を添えると、プッと吹き出して眩しそうにイイダを見た。

「おともだち、だもんねぇ」

 甘い声だ。キノシタはゆっくりとイイダの机の前に行くと、そこに腰を掛けた。それから見せつけるようにゆっくりと片足を胸の前で抱えるように机の上に上げ、白い下着の一部を露わにした。

「んなっ……」

「お友達思いのイイダ君でもぉ、やっぱり女子のパンツは気になるんだぁ」

 挑むような上目遣いで、キノシタはジッとイイダを見つめた。美しい瞳はその睫毛の影をそのさらに透明な奥に落とし、瞬きの度に揺らいだ。イイダは息を飲んでその美しさに見惚れた。整った鼻筋と、甘く少しだけ開いた、程よい肉付きの潤んだ唇から、目が離せない。

 ズイッとキノシタがイイダの目の前に顔を寄せた。

「チュウする?」

 良い匂いがする。

 一度も嗅いだ事がない匂いだ。

 なのに懐かしい。


 恐ろしく大きな音で予鈴が鳴った。


 あと0.1ミリで唇同士がくっつくところだった。

「今日は私と一緒に帰って」

 パッとキノシタが離れた。

「公園で待ってる」

 引き戸の冷たい音がして、イイダはようやく我に返った。


 ⬛️


 下校時、夕方の公園で待ち合わせをして、二人は言葉を交わす事もなく歩き始めた。七月の地面の熱気を、幾分冷めた風が心地よく奪って行った。

 イイダは隣を歩く少女の美しさを認めない訳にはいかなかった。悪魔のような、抗い難い何かがキノシタの全身を覆っていた。一体この女は(女、とイイダは思った)何者なんだ? 俺は一体何をこの先に期待しているのだ?


 キノシタが先立って入って行ったのは、うらぶれた三階建てのアパートだった。暗く重々しい外観は、中に入ってもその特性を失わなかった。キノシタが鍵を開けて中に入ると、生活感の溢れる匂いがムワリと鼻をついた。ゴキブリの匂い、とイイダは思ったが、それはゴキブリホイホイの餌の匂いだという事に気付いた。

「適当に荷物置いて」

 奥のダイニングルームから六畳一間に通されたが、恐ろしく乱雑に、まさに足の踏み場もない荒れ果てようだった。コンビニの袋、袋、袋。洗濯カゴからはみ出た衣類、ブラウン管テレビを埋め尽くす勢いのゴミ袋の山、雑誌で滑る床、溢れたカップラーメン。イイダは混乱した。何だここは。

 それからキノシタが制服を脱ぎ始めた。

「な、え!?」

「良いから。イイダ君もほら」

 ブラウスとスカートだけになったキノシタがイイダの学ランのボタンを外し始めた。

「ちょっと、何を」

 そこまで言ったところで、甘い唇がイイダのそれを塞いだ。恐ろしく柔らかい唇だった。

 夕暮れの光線が汚れた窓を透過して部屋を琥珀に染めた。キノシタはキスをしながらブラウスを脱ぎ、イイダのシャツをはだけさせた。ベルトを緩める金属質のカチャカチャという音が現実的に響いた。イイダは冷たい手が自分の熱く怒張した性器を掴むのを不思議な感覚で捉えた。キノシタはそれを上下に柔らかく擦っている。

「気持ちいいでしょ?」

 二人は向かい合う形で立ち、キノシタはイイダを握っていた。

 そして、受話器を持ち上げる音が聞こえた。

 二人の左側に黒いダイヤル式の電話が設置されており、そこにキノシタが手を伸ばしたのだ。受話器を横に置き、イイダの見えないところでゆっくりとダイヤルを回している。

「何をしてるの?」

 イイダが快感の波に溺れながら、キノシタに聞いた。

「いたずら電話。時々するの。気分がスッとする」

 ダイヤルを回し終えたようだった。

「絶対に声を出しちゃだめよ」

 呼び出し音が、電話機の横に置いてある受話器から小さく聞こえる。それを遠い潮騒のように聞きながら、キノシタはイイダの熱い性器を自分の腹に押しつけ、刺激した。イイダの息が荒くなった。もうすぐ限界だった。キノシタの甘い舌がイイダの口を割って入ってきて、蠢いた。


「ももももしもし」

 受話器から声が聞こえた。

 キムチの声を聞きながら、イイダは射精した。

「誰か、そそこにいるの? もしもーし、もしもーし」


 ⬛️


 イイダは慌てて受話器を乱暴に戻した。

 そして精液が垂れる性器をそのままに、両手でキノシタの首を締めた。

「お前……お前ッ……!」

「ヒッ ヒッ」

 首を締められながらキノシタは満面の美しい笑顔だった。顔がみるみる赤黒く浮腫んでいった。足が宙に浮いた。

「糞が!!」

 イイダはキノシタをそのまま投げ飛ばした。ゲホゲホゲホ、とキノシタは咽せた。気管に空気が送り込まれる度に、ヒューゼ、ヒューゼと音がした。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 キノシタが泣き出した。

「私、あなた達が羨ましかったの。友情を育むって、どんな気分? 信頼できる友達がいるって、幸せなんでしょう?」

 真っ赤な顔をして、必死に空気を肺に送り込みながら、綺麗な口から涎を流し、ポロポロと涙を零しながらキノシタが言った。

「私には友達なんか一人もいないからァ! 誰も私を見てくれないから! お父さんも、お母さんも、先生も、友達も! 誰もあたしを見てくれないのォ!! こんなに綺麗でいい子なのにィ!! いい子にしてるのにィィ!! 何で、何でぇェ!?」

 キノシタは叫ぶようにそう言って、吐くような姿勢で泣いた。

「お願い、お願いだから、誰か私を必要だって言って。ずっといい子でいるから、私のことが必要だって、お願いだから誰か言って。お願い、お願い、お願い」

 イイダに縋るようにキノシタは覆いかぶさった。イイダはキノシタを戸惑いながら抱きしめた。そのあまりのしなやかな体にイイダは驚いた。そして、燃えるように熱い。そのまま二人は深夜まで何度も交わった。キノシタの埋もれた机の足元の収納には、生物の死骸に関する分厚い写真集が何冊も何冊も、冷たく立て掛けられていた。


 ⬛️


 夏休みの最終日まで、イイダはキノシタの家にほとんど入り浸りだった。キノシタの母はごく稀に深夜過ぎに帰宅し、少しばかりの金を置いて早朝に出て行った。キノシタの母親と直接顔を合わせた事は一度だけあった。偶然、昼過ぎまでキノシタの母が滞在していた時にイイダが遊びに来たのだ。母は不慣れな手付きでソース焼きそばを調理し、イイダをもてなした。そして辛うじてテーブルとして機能している食卓を囲んで、三人で食べた。イイダの母に比べると相当若い母親に見えたが、本当の所はわからない。緊張で固くなったキノシタを母親がからかい、下ネタで場を凍りつかせ、ブクブクと麦茶でうがいをするように飲み干すと、扉を開けたまま用を足して、そのまま出かけて行った。動物みたいだな、とイイダは思った。

「本当にもう、恥ずかしい」

 と母が居なくなった後キノシタは吐き捨てるように言って、その後いつもより激しく性交した。イイダはコツのようなものを掴み始めて、ほとんど溺れるようにキノシタの身体に没頭した。


 キムチと一緒に三人で旅行に行こう、と持ちかけたのはキノシタだった。

 夏休み最後の思い出にどうしても行きたいとキノシタは言った。イイダがキムチの家に電話を掛け、渋るキムチにキノシタが受話器を代わって説得にあたった。

「私は、キクチ君に謝りたいと思ってるの」

 キノシタが誠心誠意といった口調で受話器に向かって語りかけた。その先には、二週間ほど学校を休んで、そのまま夏休みを迎えたキムチが耳を傾けている筈だった。

「お願いだから、最後のチャンスを私にちょうだい」


 問題は金だった。中学生三名がお金を持ち寄った所で、都内から出る事すらおぼつかない。

「電車の写真を撮りに行こうよ」

 だんだんと乗り気になってきたキムチが提案した。

「に入場券があれば、どこまででも行けて、どこからでも帰ってこれる。僕はカ、カメラを持って行くから、千代田線の写真を撮りに行こう」

 決まりだった。

「じゃあ明後日、駅に朝十時」

「わかった。カ、カメラ持って行く」


 120円の入場券を買って、下り方面に四つ駅を数えると、千代田線の写真が撮れるスポットがあった。久しぶりに会うキムチは少しふっくらとしていて、以前よりも健康そうに見えた。

「二人とも、元気そうだね」

 照れ臭そうにキムチが現れた。

「キクチ君!」

 ホームの人が少ない一番端っこで、キノシタがキクチに抱きついた。

「本当に今まで、ごめんね」

「いやいいんだ。君が、僕を導いてくれてるのは、わかってた」

 ぎこちなくキムチがキノシタを押し離した。「導いて」という言葉がイイダは気になった。

「僕こそ、途中で投げ出してごめん。これからもっと頑張る」

「キクチ君……」

 目にたっぷりの涙を浮かべて、キノシタはもう一度キムチを抱きしめた。

「許してくれて、ありがとう、ありがとう」

「僕にはどうしても君が、必要みたいだから」

 キムチも涙を浮かべながら、キノシタを抱きしめた。

 イイダの胸の中に不吉な暗雲が立ち込めた。これは何だろうか?


 目的の駅に到着して、キムチは浮かれながら三脚にカメラをセットした。

「手で持つと構図が安定しないんだ」

 久しぶりの外出に、キムチは心から浮き足立った。

 その様子を少し後ろの方で見ながら、キノシタはイイダに小声で言った。

「人身事故って見たことある?」

 イイダはキョトンとした顔で言った。

「は? ある訳ないだろ」

「私ね、一度でいいから、列車の人身事故が見てみたいの」

「何を言ってるんだ?」

「特急電車に人が飛び込むでしょう? そうすると、人がバーン!ってバラバラになるんだって。跳ね飛ばされた頭や腕や足が、ホームに立ってた人にぶつかって、大怪我する事もあるんだって」

 その視線の先には、キムチがカメラを覗き込んだり、位置を微調整したりしていた。

「私の言ってる事、わかる?」

 キノシタがイイダの目を真っ直ぐに見ながら、確信を持った声で言った。

「キムチはきっと、この先、生きていても良い事なんか何もない。みんなに馬鹿にされて、お荷物扱いされて、良いようにこき使われて、誰にも愛されず、ただ冷たい空気を呼吸するだけの人生を無為に過ごして行くの。頭も悪いし、身体だって先天的におかしい。走る事だって覚束ない。ねぇ、キムチはどうして生まれてきたの? 何のために、生きているの?」

 イイダは絶句して、キノシタの顔を眺めた。こいつは一体、何を言ってるのだ?

「でも、そんなキクチ君が、私が必要だって言ってくれた。何だか、胸が暖かくなって、嬉しい気持ちになる」

 イイダは理解した。この暗雲は、嫉妬だ。

 俺は、キムチに嫉妬したのだ。

 なあ、俺たちさっきまで友達だったよな?

なのに、何で急に俺は、俺はお前の事を……?

「まもなく、特急列車が通過いたします。白線の内側に下がってお待ちください」

 無機質なアナウンスが告げる。

「そっと、線路に押し出すだけでいい」

 キノシタがイイダの耳元で囁いた。

「きっと、それは不幸な事故なの」

 イイダは暖かいキノシタの身体を思い出した。柔らかく受け入れ、押し返そうとするキノシタの中。柔らかく包み、促す脈動。溶ける身体。甘い汗、匂い。全部、俺だけのものだ。絶対に失いたくない。何に賭けても、失ってはいけないものだ。悦びを感じる顔、声、たゆみ、微笑み、祈りに似たこみ上げる何か。


 イイダは歩き出した。

 あどけなくキムチが振り返る。

「この特急電車の後に、やってくるんだ」

 そうか。

「一緒に写真、写してくれるよね?」

 激しい警笛が遠くから聞こえてくる。

「なあ、どうしてそんなに、泣いているんだ?」


 ⬛️


 二十年後。

 軽やかな呼び出し音が鳴った。

 手元のiPhoneのディスプレイ表示は不明。「不明」。


「もしもし」

 イイダが緑のボタンを押して、電話に出た。


 何も聞こえない。

 イイダは耳を済ませる。

 プーンという電話特有の電波音の後ろから、小さな息遣いが聞こえてくる。ハァハァという、快楽に溺れる女の吐息だ。


「なあ、聞いてくれ」

 イイダが当ても無くその電話の向こう側にいる人に向けて語る。

「お前が俺に教えてくれた事は、とても大切な事だった」

(無音)

「綺麗事だけで人は生きて行けないとか、生きる事ってつまり、無様でみっともない事だとか」

 目を閉じてイイダは回想する。


 すぐ間近を轟音をもって通り過ぎる鉄の塊。

 髪の毛一本の差でそれはイイダとキムチのすぐ脇を通り過ぎて行った。

 訪れる静寂。

「お前達には失望した」

 ツカツカと歩いて去って行った、キノシタの後ろ姿。


「でも俺はこう思うんだ。人が自分の幸せだけを考えて生きて、何が悪いんだって。つまんない欲望や、悪い事や、退屈があっての人生だ。お前が教えてくれたのは、うまく言えないんだけど、そういう事だ」

 イイダはタバコに火を点けようとして、やめる。


「君を愛してる」


 電話の向こう側で、誰かが啜り泣いている。


「君を愛してる」

「死ね」

「愛してる」

「死ね!」


「愛してる!!」


「死ね!!!!!!!!」





(終わり)



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