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「十八時間前、ロボットにエンケラドゥスの氷を掘削させ、3Dプリンターの掘削機能で極薄の一六の図形を作った」

「はい」

「そしてエンケラドゥスの水面に浮かべた。氷は水に浮かぶからのぅ」

 三郎の語幹がやけに耳障りだ。教授という職業特有の声だと一美は思う。

「あの実験の結果を、教授はどうお捉えなのですか」

「一部成功だ。こちらが試した信号に、向こうは答えてくれたように思う。2と3に対応する図形を浮かべ、5の図形を次に浮かべる作業を一時間連続で繰り返したところ、その一時間後に5と3に対応する図形を浮かべれば、8に対応するグラフェンが出現するようになった」

「なるほど。水面が足し算の概念を我々と共有したということなのでしょうか」

「おそらくのぅ。今、1と6をこちらが提示して、向こうが3と4を返してきたところまでは進んでいる――一応、我々は未知との遭遇をしているはずなのだ」

「ですが」

「一美君。言わんでもいい。数字の足し合わせくらいの文明規模ならば、事前に他国が何らかのナノマシンや機械を投入していただけという可能性を排除できないということだろう?」

 三郎の言った疑念は一美も共有していた。

 二の四乗で表現される数字というのは、生命の文明のようにも思えるが、一方でそれは、二進法の延長線上ということにもなる。二進法は機械が支配する言語だ。三二九もの図形のほとんどが冗長で、なんの意味もなさず、零落しつつある日本の宇宙開発を嘲笑うために作られたキツいブラックジョークから一美たちが二進法という機械の言語の性質を導き出しただけにすぎないのかもしれない。

「それもありますが、教授。私には不思議な点がもう一つあるのです」

「なんじゃ」

「教授、あのグラファイトはどこから現れたんです?」

 一美と三郎は未知との意思疎通にあたり、〈リング〉に搭載していた車のロボットアームでεの水面にそっと薄い氷を浮かべていた。一方でグラファイトは、まるで間欠泉の底からたまに湧き上がる水蒸気の気泡が突然現れたかのように、瞬時に出現する。

「それについては、ちょいと自説を考えてみた」

「へぇ。教授の説ですか」

「きっと我々が遭遇している未知という存在は、私たちと次元を三つの軸しか共有しておらんのじゃ」

「はぁ」

 感嘆符がこぼれるだけの一美に対し、三郎はいきいきと血色を取り戻しているようだった。これが教授の職業病なのだろうか。 

「我々の世界は、タテ・ヨコ・タカサ・ジカンという四次元からなると言われておる。分かりにくいのでジカンを省き、この世界は三次元と仮定しようじゃないか」

「はい」

「立体を日本刀で斬ったとしよう。立体は林檎でも蜜柑でもなんでもいい。切断された立体は、面を持つ」

「面、ですか」

「そうじゃ。三次元の物体をどこかで切断すれば、面が生まれる。わしらが面積という概念を使うとき、便宜上、タテ・ヨコと考えるじゃろ」

「そうですね」

「おそらく、間欠泉の水面に浮かぶ一枚の黒鉛のグラフェンに意味はないんじゃ。あの形態じゃないと、E.T.はわしらにメッセージを送ることができない」

「どういうことですか」

「わしらの世界とE.T.の世界は、ε‐3の水面という境界のみで接しておるんじゃ。E.T.というやつは、わしらと違う軸の三次元の世界にいるか、もしくはわしらの知らない超越次元生命体なのだ」

 へへん、とふんぞり返った三郎教授を見て、一美はなんて馬鹿馬鹿しい説なんだ、と思った。科学的な説ではないと思った。反証できない説は科学的ではないからだ。まるでエヴェレットの多世界解釈のような話だ。

 しかし、エヴェレット説と共通して、三郎説には妙な説得性があった。日本が誇る〈彦星〉の頭脳でさえ、グラフェンが急に水面に現れる現象を説明することはできなかった。図形を次元の異なる場所から水面上に投影されている信号、言語だと解釈すれば、三郎説は信憑性を帯びる。

「とりあえず超越次元生命体と仮定してみた、だけなんですね」

「そうじゃ。我々にとってE.T.が超越次元生命かどうかというのは些細な問題だ」

 一美にはそうは思えなかったが、黙っていた。

 訳の分からない存在と対峙しているのか、単に他国のマシンに嘲笑われているのかはともかく、ここから一歩を踏み出すには、どんな案でもよいから現状を打開する可能性のある案に賭けるしかない。何しろ時間が足りないのだ。エンケラドゥスでの研究滞在時間はほとんど経過してしまい、二二四時間後に〈リング〉を出発させなくてはならない。今のエンケラドゥス研究の成果では、地球に戻って借金苦になるのが目に見えていた。

 藁にもすがる思いで、一美は三郎教授についていくことにした。

「そこで。今は相手が超越次元生命体で、しかも我々より賢いとわしは仮定するのじゃ」

「はい」

「相手が賢ければ、解析も相手に任せたらよかろう?」

 ここで一美は三郎のやりたいことが分かった。

 三郎は日本語の羅列をE.T.に送り、相手にこちらの言語を解析させようとしているのだ。もし私たちよりも彼らの方が知性が高いのならば、彼らに解析を任せた方が速い。

「分かりました。なるほど。こちらの言語データを向こうに寄越す、と」

「そうじゃ」

「どうこちらの言語を伝えます? 伝える媒介物メッセンジャーがないと」

「機械デバイスを使いたいんじゃが、残念なことに水に浮かぶ金属でできたデバイスはないんじゃ。もしE.T.と水面でしか交信できないとしたら、できるだけ水面に浮かぶようなものがいいと思う」

「では、氷ですか」

「氷の図形パターンを3Dプリンターで掘削するのも時間がかかる。一美君、水に浮かぶものといえば、氷のほかに何かないかね」

「無機物……リチウムなら一瞬浮かせられますが。どれくらいで爆発するかは分かりません」

「金属はだめ、か」

「そうですね。では有機物」

「そうだ。有機物――木製のもの、とかどうかな」

 三郎は何かを求めるかのように一美を見つめた。

「えっと……木造のものはこの船に持ち込めないはずですよね?」

 〈リング〉の内部構造物、備品、個人の所有物に至るまで、火気厳禁として木製のものは持ち込みが禁止されていた。本は電子図書に、箸は金属製に、トイレットペーパーはウォシュレットに、タオルはエアータオルに。

「一美君。持っとるじゃろ」

「え?」

「手紙」

 一美はきょとんとし、それから頬が熱くなるのを感じた。

「な……」

「数志君と懇ろなのは知っとるんじゃ。持ち込み禁止の手紙、持っとるんじゃろう」

 三郎は一美に宛てられた手紙ラブレター媒介物メッセンジャーとして使おうとしているようだった。

「ちょ――なんで教授が知っているんですか」

「木星のスイングバイのとき、読んでるのが見えた」

「覗き見、セクハラですよセクハラ!」

「持ち込み禁止のものを持ってるのが悪い。だいたい、恋文なんぞメールでいいだろうに……わしらの時代でも手書きの手紙なんぞ書かんというに」

 慌てる一美に、

「どれくらい書いてあるんじゃ?」

 と三郎が無遠慮に尋ねる。

「何がです」

「数志君がどれくらいの文字数を君に送ったんだ」

「文字数――」

「最低でも、ひらがなが全部網羅されているのが望ましいんだがなぁ……いろは歌とかベストなんだよね」

「私、全部読みきってませんよっ!」

「でもいくつかは読んだんじゃろ? なんて言ってきとった? 愛してるー、とか?」

「黙れエロジジイ」

 交信とは関係のない話になりかけ、一美は毒づいた。

 木星で読んだ時の数志の手紙は、かなり長かった。一美を励まそうと誠心誠意、手紙に想いを込めたように一美は見えた。それを「ひらがな」という記号としてとらえ、文字数の多寡を問うというのは、数志の想いが汚されているような気がした。

「若いのはいいことじゃ――しかし、真面目な話、科研費があれば君らの結婚費用もなんとかなりそうだし、数志君の手紙、使わせてくれんか」

「嫌ですよ。だいたい、手紙を交信に使うなんて、不用心もいいところです。文面をどう超越次元生命体が捉えるのかは知りませんが、誤解が発生して宣戦布告文だと解釈されたらどうするんです。宇宙戦争の始まりですよ」

「それはじゃな」

 三郎は電子パッドを持ち出した。

「つい先ほど、八〇分前に決定された日本政府の方針が伝えられてきてな。国としても交信を試してみたいらしい。超法規的な措置として、今回の交信を認めるとのことだ」

「そんなばかな」

 用意周到に根回しを行っていた三郎に憤りながらも、一美は電子パッドを見、政府の決定通知書を見る。地球にいたころと変わらない、倫理感も危機感もない政府の役所仕事に呆れながら、退路を断たれたことを確認した。

「……本当に、浮かべるものは手紙しかないんですか? 教授も何か持ち込んでたりしません?」

「あいにく、何もない。本当にこれが最終手段だ」

 手紙ラブレターが未知との遭遇の道具になるなんて、誰が想像できるだろう。

「わかりました――でも、一日待ってください。数志の想いをしっかり読んでおきたい」

「……ありがとう、一美君」

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