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 土星のスイングバイを利用して地球に帰還しなくてはならない。日本の探査機〈リング〉が衛星エンケラドゥスで活動できるのは、残り一週間だった。

 米国探査機〈カッシーニ〉がエンケラドゥスに生命の可能性を示唆してから二世紀あまり。地球圏国家に住むすべての研究者にとって、地球外生命の発見はノーベル賞級、いや、もはや賞などという枠に留めることのできない栄光だった。一美たちはあと一歩でその栄光に手が届きそうなところにいた。

 一美とその教授、三郎が調査しているεイプシロン‐3という泉は、氷で覆われたエンケラドゥスの北極ノース・ポール付近に位置する、蒸気噴出活動の終期に差し掛かった大きなだ。泉の底の蒸気と圧力が、摂氏零度に近い液体を作り出している。水面すいめんは大気に冷やされながらもかろうじて太陽光を反射し、水面みなもを撫でた光は時折〈リング〉の機体を照らす。εは日本の昔のロケットに因んだ命名で、この泉が日本という国が発見したエンケラドゥス三番目の大規模な泉であることを示している。

「なんとしても未知と遭遇するんだ、一美君。このまま成果なしで帰ることになれば、わしは科研費取れずにスッカラカンの教授となってしまう……そうすると君とて将来の就職先が危うくなる」

「それは困ります。ローンを組んでまで、今回の宇宙研究の渡航費出してるんですよ」

「すまんのう……わしが高名な教授だったら国から補助金が下りたはずなんじゃが」

「大丈夫です、教授のゼミに入る決心をしたときから、教授にお金のアテはできないと覚悟してきていました」

「手厳しいご意見じゃな」

 エンケラドゥスでの〈リング〉チームの研究成果は芳しくなかった。新たな発見と言えるものはほとんどなく、一美と三郎は一縷の望みをε‐3に賭けていた。

「わしらに残っているのはこの謎……εの水面の図形データだ。水面に浮かび上がったグラファイトのパターンは、正方形や楕円といった、明らかに文明の痕跡として見て取れる」

「認めます。確かに私たちは、文明の操作が施されたグラファイトのパターンを撮影しています」

 〈リング〉に搭載された望遠観測レンズは、εの水面に明らかな変化を認めていた。εの地点は北極の近くなので、エンケラドゥスの一日・三三時間のうち、二五時間は白夜となり暗い。しかし昼になると、太陽系で最も白い衛星ほしとして有名なエンケラドゥスは、美しい氷河のような水と白き山並みの雄大な光景を見せてくれる。その白いシルエットに隠されたグラファイトを、〈リング〉の電子レーザー観測システムが捉えたのだ。

 当初、〈リング〉搭載の補助AI〈彦星〉は、エンケラドゥスの自然パターンとしてグラファイトの存在を認識していたが、グラファイトは規則的な動きで正方形や楕円、円といった形を彩ったため、何らかの生命からのメッセージではないかと一美と三郎に報告した。

 〈リング〉搭載の探査車で黒い物体を掬い取り、ロボットによる破壊探査まで念のため行い〈彦星〉にグラファイトを解析させたところ、εの水面に浮かぶ図形は単純なベンゼン環が連続した一層の一枚の黒鉛のグラフェンだと分かった。観測システムからの情報によると、図形はどれも一メートル範囲に収まる大きさで、一枚の黒鉛のグラフェンが様々な形を取っているようだ。

「しかしですね、先生。政府通信にもありましたが、グラファイトが幾何学的な模様を描くεの水面というだけでは、それがE.T.地球外生命からのメッセージという証拠にはなりませんよね。むしろアメリカや欧州ユーロのナノマシンによる嫌がらせ説という線が濃厚視されそうかと」

「だからこそ、この幾何模様を作り出す何者かとの交信コミュニケーションが必要なのだ」

 水面に形作られる図形のパターンは有限で、二分おきに異なる図形が登場する。グラファイトは水よりも重いから、登場しては間欠泉の底へゆっくりと沈んでいく。まるで黒い雪が沈んでいくように。

 図形のパターン数は有限といっても、三二九通りあることが現在のところ解析できていた。この図形の信号シグナルが、猿がタイプを打ち続けた代物のような意味のないものなのか、それとも何らかの意図を込められたものなのであるのかは判然としていない。図形のパターンから文明を読み取る作業は、非常に困難なものだった。

「こんな水面の動画データだけでは、ねつ造された新発見と笑われるのがオチだ」

「そうでしょうね。いきなり現れる炭素の集合という事態だけでも熱力学に反するありえない事態ですが。動画からでは急に現れたかどうか、なんて分かり様がないですし」

 無作為の情報から意味を読み取ることを、防ぐことが大切なのだ。

「だから一美君、私たちは、この信号から意味をくみ取らなくてはいけない。何かこちらの信号に図形が反応さえすれば、論文書き放題、受賞し放題の天国が待っておる。『エンケラドゥス図形異星体の言語とその挙動について』『図形言語の解析、数列からの試み』論文のタイトルなどいくらでも妄想できる――あと一週間で、だよ? 天国と地獄が分かれるのは」

「正確には二二六時間ですね」

「時間が圧倒的に足りないのだ! 三二九もの符号の組み合わせから文明の痕跡を読み取るなど、言語学や暗号解読が本職の連中でも一か月以上かかるだろうに」

 図形の信号が意味あるものなのかどうなのか、それを解くのはまさに、戦争時に敵国の暗号を解くような作業といえた。暗号解読の初歩は、相手方の言語の特徴を考えることだ。英語ならばa、iといった母音の登場回数が多いから、出現頻度の高い図形が母音にあたるのではないかと考えることができる。

 しかし、未知との遭遇に際し困難を極めることは、そもそも相手がどのような言語を使っているか分からないという点だ。人間の尺度では測れないのだから、もしかすると人間がおよそ言語とは判断しない代物にてコミュニケーションを図っていることも考えられる。一美たちは、ひとまず地球上のどんな文明も持っていた概念――数を図形パターンから読み取れないか試み、それに成功した。

「こんな短い時間で、十六進法を採用している数字とみられる図形パターンを解き明かしたんですよ。なんとか科研費もらえませんかね」

「この図形パターンに十六進法が採用されているとしてだな。今、わしらが直面することは、三二九の図形パターンのうち、たった一六しかそこから意味を読み取れておらんという悲しい事実だ。『数字』だけでは地球の科学者にこの信号がE.T.のメッセージだと突きつけられぬ……」

「私もまだこれがE.T.のものだと断じるのは早計と思います、教授」

「そうじゃろう! 数字に対応する図形なんて発見だけでは、わしゃエンケラドゥスから帰れんよ! 言語だ! 言語で彼らと通じ合いたい! コミュニケーションが必要なのだ。 一美君はE.T.とのファーストコンタクトの名誉が欲しくはないのかね。あと一週間! 時間が惜しい……ぐぬぬ……」

「人類初の称号、欲しいですね。あと、純粋にE.T.とのコミュニケーションがどういうものなのか、気になります。ですが時間は時間です……今回のスイングバイを逃せば、〈リング〉の搭載している燃料で地球に次に帰還できるのは二千年も後です。間違いなくその称号は他国か日本の別の研究者に先を越されてますよ。私たちも死んでます」

 やるせない思いをぶつけた一美に、三郎は、ああ無常、と言いたげに仰々しく天を仰いだ。

「仕方ない。少し現在の状況を振り返ろうじゃないか、一美君」

 三郎は椅子に深く腰掛けた。

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