リスタート
仕事を終える。
ひとり、夜道を歩きながら悩んでいた。
彼女は言った。
「店に来てください」
と。
私は本当に行くべきなのだろうか?
行って、どうなる?
……なんて悩んだふりをするけど、違う。
たぶん、私は怖いのだ。
彼女に対して私がやらかした失敗。
万が一、それを責められたら――。
想像するだけで、心がずたずたになる。
けれど、彼女の言葉を無視することもできなくて。
「いらっしゃいませー、……あ」
結果、私は巴飯店にやって来ていた。
「お一人様ですか?」
彼女が問う。私は小さく首肯して返した。
適当なテーブル席に座る。この店に来るのも久々だ。
油で滑る床も、古びた調味料入れも、壁にかけてあるメニューもそのまま。
そして、この店内で働く彼女の姿も、以前と同じだった。
「注文、どうします?」
「あ、えっと……」
彼女が注文を取りに来るが、店内を観察していた私は、何を頼もうかと迷う。
「今日の日替わりは
彼女がそう言って、悪戯っぽく笑う。その表情に、私の顔も、そして心もつられてしまった。
「えっと、じゃあそれで」
「わかりました。日替わり一つですね」
彼女はそう言って微笑み、厨房へと消える。
私はぼんやりと虚空を眺めながら、時折、ちらりと厨房を見る。調理に勤しんでいる彼女がいた。
漂ってくる油と調味料の匂いが、ここでの記憶を思い出させる。
そして、彼女との日々も。
いくつもの光が、脳裏で煌めく。
その全てに、彼女がいる。
真っ暗な夜空に、星が瞬く。
「お待たせいたしました」
彼女がそう言って、お盆に料理を載せて運んでくる。
ごはん、スープ、主菜、副菜。バランスの良い献立が、机の上に並び――。
「あと、これ」
彼女が、私に何かを差し出した。
それは、一片の紙。
「……これは」
私はそれを見て、目を丸くした。
それは映画のチケットだった。
それも、あの日二人で観たものと同じ作品だ。
「……まだ、やってたんだ」
「人気シリーズですし、超大作ですからね。お客さんも入るんでしょう」
彼女はそう言ったあと、こほん、と咳払いをする。
「……で、受け取るんですか? 受け取らないんですか?」
「あ、えっと……」
彼女の真っ直ぐな言葉に、私は戸惑い言葉に詰まる。
「霞さんが受け取らないなら、私、友達と行きますけど」
彼女はそう言いつつ、ぐい、と私にチケットを差し出してくる。
私はおずおずと手を伸ばし、それを受けとった。
「……でも、どうして?」
「…………私にもわかりません。ただ、アレで終わりにはしたくないなって」
彼女は私から顔を逸らしながら、ぶっきらぼうに言う。そこには彼女特有の明るさや無邪気さはなく、なんだか手探りのような覚束ない感じがする。
でもその手探りさは、私にも多少覚えがあるものだった。……もっとも、私の場合は力技が過ぎたかもしれないけれど。
「……霞さんの言葉は、まだ……その、判断つきかねてます」
彼女はそう言って、小さく息を吸う。彼女は胸の前に両手を持ってきて、片方の手でもう片方の指先を握ったり離したり、と落ち着かない。
「……それは、その……」
ごめん、と言おうとした。
「……謝ろうとしてません?」
図星を突かれて、びくん、と体が硬直する。
「謝らないでください。……私も、わかってないんです。……ほんと、ああいうことは……その、初めて、でして……」
彼女が顔を赤くして、少し俯く。髪が彼女の顔の動きに追従して動き、垂れる。艶々とした黒髪は、店内の照明を反射していた。
「だ、だから、ですね! と、とりあえず……とりあえず!」
彼女は意を決したように顔を上げ、口を開く。彼女は、続ける。
「あれで終わりにしないでください。……霞さんといるのは、私、楽しい……ですから……」
そう言い終えた彼女は、私から目を逸らして口を閉ざした。
彼女のその言葉に、私は目を丸くし、一瞬、思考が止まる。
鼻の奥から溢れるツンとした熱が、目の端から零れ落ちようとするのを、なんとか我慢した。
「……それは、私も。由香里ちゃんといるの、楽しかった……から」
「……それは、良かったです」
彼女は安堵したような表情を浮かべ、私の持っているチケットと同じチケットを、エプロンのポケットから取り出した。
「ですから、今度、もう一度これを観に行きましょう。……何度も同じ映画を観るのは退屈ですか?」
そう問われた私は、慌てて首を横に振る。
「退屈じゃないよ。……うん、嬉しい。…………よろしくね」
私がそう言って微笑む。
すると、彼女はあの無邪気で屈託のない笑みを、満面に浮かべた。
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