アゲイン
あの日以来、巴飯店には行っていない。
彼女ともすれ違っていない。
私に初めて訪れた衝動、それをもたらした彼女。
彼女は、私の世界から夢幻のように消え去ってしまった。
……しまった、という言い方は正しくないような気がする。
私が、壊し、消してしまったのだ。
あの日以来、私の世界から色彩は消え去った。
衝動は、一度たりとも訪れない。
私の世界を、再び空虚感が占めるようになってしまった。
あの日のこと、いや、彼女との思い出の数々は、本当にあったのか、と疑問に思うことすらある。
けれど。
私の鞄で揺れているキーホルダーを見れば、彼女との日々は実際にあったのだ、と私に強く告げるのであった。
キーホルダーを見ると、私は自身の中で未だにくすぶる、甘く切ない熱を否応なしに自覚せざるを得ない。それが、私の未練を教えている。
どこまでも、歯切れが悪いな、と自嘲した。
今日も私は歯車になる。何一つ個性のない代替品になる。
私と同じような代替品と、代替品になるであろう運命を背負っている少年少女たちが、駅に立っている。
電車が到着し、歯車とその材料たちが、自身の足で詰め込まれていく。
そこに、意思はあるのだろうか。そんな疑問を抱きつつ、私も彼らに倣う。
車内はすでに人で一杯。私が入る余地はあるのだろうか。そんなことを思ったそばから、後ろにいる人たちに押し込まれてしまう。
電車が、揺れる。
しばらく苦痛を味わったあと、職場の最寄り駅に到着した。
人の流れに押し出されるようにして、私は外に出る。
そのとき。
がっ、と鞄が何かに引っかかる。見ると、あのキーホルダーが他人の鞄に引っかかっていた。
「あっ」
思わず言葉を出してしまう。私のキーホルダーが鞄に引っかかったおじさんは、不機嫌そうな顔をして自身の鞄を引っ張る。
ぶちっ、と嫌な音がする。見ると、キーホルダーを引っかけていた鞄のストラップが切れ、キーホルダーが落下していくのがわかった。
拾わなきゃ、と思う。
その直後、どうして? と疑問を呈する。
彼女との思い出だから。
その思い出を壊したのは私なのに?
相反する様々な思考が重なり、私は硬直する。そんな私を邪魔だと言わんばかりに、他の人たちは私を避け、あるいは私にぶつかり、電車へと乗り込んでいく。
拾わなきゃ。再びそう思った。
手を伸ばす。手が蹴られる。
痛さに顔を歪める。誰かにぶつかられ、その衝撃で転ぶ。
どうして私はここまで嫌な思いをして、人の悪意を向けられて、わざわざこんなキーホルダーを拾おうとしているのだろうか。
もういいじゃないか、と私の中の打算的な部分が
もう終わったんだ、と自嘲的な私が漏らす。
もういいか、と思った。思ってしまった。
あのキーホルダーを諦めれば、彼女との思い出、それを形にしたものは消える。
そうすれば、彼女との思い出も少しずつ消えていくような気がした。
それはとても楽で、生暖かい。
そして、悲しいことなのだろうな、と思う。
でも、それでいいかと――。
思うか?
自問する。
嘘だ。
自答する。
思わない。
再び自答する。
嫌だ。
私は、主張する。
衝動が、私を突き動かす。
私は、転がっているキーホルダーに手を伸ばす。
再び、私の手が誰かに蹴られる。
きっと、蹴った人は欠片の罪悪感もないのだろう。
そう思うと、酷く悲しく思えた。
そして。
彼女との思い出、それを拾わせまいと邪魔するもの全てに、人生初めての怒りを覚えた。
体験したことのない感情が、腹の底から湧き出てくる。
それは何もかもを焼き尽くし、溶かし尽くしそうな熱を帯びていた。
その熱が、私という殻を突き破って、外に出ようとする。
再び、私は誰かにぶつかられる。
瞬間、感情が爆ぜる。
視界が、白くなった。
私の世界は、彼女を除いて灰色で空虚だ。
その灰色で空虚な世界が、今、私を阻害し、傷つけている。
私に何の変化も、何の衝動も、何の色彩も与えなかった、彼女以外の世界。
そんな世界に、何を遠慮する必要がある?
怒りは、私の思考を尖らせる。
全て、全て、全て。
彼女以外の全てが、どうでもよかった。
今ここで、見知らぬ人に嫌な顔をされようが、見知らぬ人にどう思われようが。
この世界における“普通”がどんなものであろうが、規範がどんなものであろうが。
彼女を除く全てが、私にとってはどうでもよかったのだ。
どうでもいいものに拘泥するほど、私はこの世界を愛していない。
感情の熱は喉を焼き、産声を上げる。
「どいてくださいっ!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。びりり、と自身の鼓膜が揺れる。
直後、しん、と周囲が静まりかえる。見回すと、他人が目を丸くして私を見ていた。
彼らは、私から距離を取って電車へ乗り込む。私はよろめきながら立ち上がり、キーホルダーへと向かう。
そういえば、彼女と出会ったのもこの駅だったな。
転がるキーホルダーを見て、そんなことを思い出す。
その記憶は、彼女との日々を私の中にフラッシュバックさせる。
初めて出会った日。
巴飯店で過ごした時間。
一緒に観た映画。飲んだお茶。雑貨店でのこと。
そして、改札――。
あの感情も、衝動も、欲望も、渇望も、そして失敗も。
私にとっては唯一無二で。
多少の苦みを伴っていたとしても、それは『今の私』という存在にとって、必要不可欠なものだった。
彼女との縁が切れてしまっても、彼女との思い出は消したくない。
私はそんな願いを抱く。
やっとのことでキーホルダーを拾う。キーホルダーは、傷だらけになっていた。
彼女との思い出が傷つけられたような気がして、視界が霞む。
そのとき。
「大丈夫ですか⁉」
と誰かの声がした。いや、違う。
彼女の、声がした。
思わず、その声の方に振り向いてしまう。
そこには、目を丸くしている彼女がいた。
「……霞さん?」
「……あ、由香里、ちゃん」
「だ、大丈夫ですか?」
彼女は私の手を取り、駅のベンチへと連れて行く。きっと、今の電車に乗りたかっただろうに。
また彼女に迷惑をかけてしまった。
二人、並んでベンチに座る。
「ここ、すりむいてるじゃないですか……。ちょっと待ってください」
彼女が心配そうな表情を浮かべ、学生鞄からポーチを取り出す。
そのポーチには、簡単な救急キットが入っていた。マメだな、と思った。
「大丈夫ですか? どうしてあんなことに?」
彼女が私の擦り傷を消毒してくれながら、そう尋ねてくる。
「……えっと、その……」
素直にあったことを言うべきなのだろうか。言うべきなのだろうけれど――。言ったら言ったで、彼女に重荷を背負わせかねないような気がする。
そんなことを思っていると、私が握っていたキーホルダーに彼女の目が向く。
「……まさかこれを拾おうと?」
彼女の問いに、私は俯きつつ、「……うん」と返す。
「……………………そうですか」
彼女はそう漏らし、淡々と私の手を消毒し、包帯を巻いていく。実に手慣れていた。
「……上手だね」
「えへへ、お父さんに色々たたき込まれまして」
私の素直な感想に、彼女はこそばゆそうに笑った。
「……キーホルダー、持っててくれたんですね」
少しの沈黙を置いて、彼女が口を開く。
「…………うん。持ってた、よ」
思考や感情が入り混じり、上手く言葉が紡げない。
ぶつ切りになった言葉は、彼女に届いてくれただろうか。
「……あの日以来、お店、来てくれませんね」
「……それは……」
私は言葉を詰まらせる。
巴飯店から遠ざかっていた理由を、なんて説明すればいい?
「……やっぱり、告白……してくれたことですか?」
「…………」
私は、小さく首肯して返した。
「どうして、来てくれないんですか?」
彼女は、私を覗き込みながら問う。まるで、年下の子を注意するかのように。
「……その、気まずいから……」
「……わかりますけど。……その、私がこんなこと言うのも、どうかと思いますが」
彼女はそう言って俯き、しばし、口を閉ざす。
その後、彼女はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐ私を見据えた。
その視線に、覚えがある。初めて、巴飯店に行った日のことを思い出した。
「私、待ってたんですよ?」
「……ごめん」
朝の喧噪で騒がしい駅に、私と彼女の会話がぽつりぽつりと浮かんでいく。
「…………今日、店に来てください」
「……え?」
「お店、私がやってますから」
彼女はそう言って、立ち上がる。
「そろそろ、電車に乗らなきゃなので」
ホームには、電車が滑り込んでいた。
「あ、あの」
「私も」
彼女は鞄の中から、スマートフォンを取り出す。
そこには、私と一緒に買ったキーホルダーが、ストラップのようにつけられていた。
「まだ持ってます」
彼女はそう言い残し、電車に乗り込む。
私はベンチに座ったまま、彼女を見送った。
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